紺碧 -konpeki-


背後からの見張るような視線に背を押され、準太は放課後敷地内を抜け出した。
アスファルトを蹴る足は重く、けれど意志の強い視線が自分を捕らえて離さない。
「迅、ついて来んなよ」
前を向いたまま放った言葉に、横へ移動した後輩は怪しげな目線を寄こした。
「……スンマセン。どうしても連れて来いって言われてるんで」
若干困り気味な様子で、けれど迅は準太の傍から離れるつもりは無いらしい。

部活が休みの日にわざわざ部室に呼び出すとは。
本当は、行く気はなかった。見舞いに来た迅の言葉にただ首を振った昨日。
けれど、帰り際に慎吾の名前を出されて準太は遂に了承の返事を出す。
胸につかえた何か。ぐるぐると渦巻き続ける不穏な感情。
慎吾相手になら遠慮することはない。
早くこの気持ち悪さから抜け出したかった。その答えが慎吾と……そして利央にあることは分かっていた。
けれど、一体何を言えばいいのか分からない。
そもそも自分が何をしたいのか……、それすらも闇の向こうに霞んでしまっているのだ。
(でも、慎吾さんに会わねーと……)
何故かそう思う。
会えばきっと、重い一撃を食らうだろう。
利央と慎吾、2人はどうなったのかその結果も気にならないといえば嘘だ。
だけど、どうしてそれがこんなに暗い気分を引き出すのだろう。
3日以上かけて考えた思いは、それでもまとまらない。
己の処理能力の低さに呆れながら、準太は迅の隣で大きなため息をつき、歩を進める。
そして顔を上げると目の前には、外部グラウンドの看板が見えてきた。

――正念場だった。



***


薄暗い部室。本当に人がいるのかと疑うくらい、そこは静まり返っていた。
嫌な場所だ。あの時の様子が再び準太の頭の中でフラッシュバックする。
戸惑いがちにドアノブに手をかけると、斜め後ろで様子を見守っていた迅が一礼してその場を離れていく。
(……律儀だな、ホントに)
迅の足音が聞こえなくなった後、準太はゆっくりとドアを開けた。
電灯がひとつだけ灯され、中央のベンチに慎吾は寝転んでいる。
準太は何を言うでもなく、そのまま慎吾の傍らに棒立ちした。
一体何を考えているのか。
腕を枕にしたまま、慎吾はなかなか目を開けない。
(まさかホントに寝てんのか、この人……)
じっとその顔を見つめながら、準太は不意に自分の中に怒気が募るのがわかった。
何か強い言葉を掛けて、叩き起こしてやろうか。
体の両脇で握られた手がぶるりと震える。
それは、数日前ぐちゃぐちゃの思考で思った、あの時の気持ちとよく似ている。
殴りかかりたくて、けれど最後に理性が勝って、持ち上げた手が再び下ろされたとき慎吾はようやく起き上がった。

「……来ねーかと思ったけど。ちょっとは打たれ強くなったか」
準太の顔色が明らかに曇った。呼び出しの第一声がこの罵倒。
ベンチに座った男は、真っ直ぐに自分を見つめてくる。
現役時代と何も変わらないこの鋭い瞳。深い海に放り込まれたような、見透かされているようなこの感じ。
彼の引退前、慎吾と2人きりのとき、準太はそんな気がしていつも落ち着けなかった。
「……用はなんですか」
自分でもびっくりするほど冷ややかな言葉が飛び出した。だが、ひとつ年上の男は微動だにせずじっと準太をみつめたまま。
痛いほどの張り詰めた空気が、一瞬その場を支配した。
まさかこんな形で対峙するなど、想像できなかった。
いつも部活で和気藹々。時に真剣に、時にアドバイスを受けたりとそんな関係だったはずなのに。
「利央が――」
一触即発の場面で、慎吾が呼んだひとつの名前。
その名前に準太が思わずびくんと反応した。慎吾は口元を触って勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「利央がどうして俺のところに来たのか、知りたいだろ」
「……知ってますよ、もう」
噛んでいる唇が熱を持って痛い。弱々しく答えられた言葉は、何よりも己の敗北を準太に刻み付ける。
そう、きっと認めたくなかったのだ。
自分が利央に選ばれなかったのだと。もう、その存在が幼馴染じゃなくなっているんだって事を。
「慎吾さんがなんて返事したのか知らないですけど、でも……。アイツ泣かせたら、殴ります」
ずっと燻っていた想い。利央が大事なのだ。笑顔が一番似合う後輩。それを奪うのは許せない。
けれどそれと同時に、泣かせる特権は自分だけのものだと準太は思う。
幼い頃から、泣かせていじるのは自分だけの役割。同じ幼馴染の和己にすら譲れない部分。
慎吾に自分は負けたけれど、でもひとつくらいはこの手に残したい。
自分と利央だけの、特別なつながりを。
「利き手で殴るなんて、エース失格だぞ」
今度こそ迷う必要はない。一発入れようとそっと拳を持ち上げた準太を横目で軽く流して、慎吾は不敵に笑う。
その余裕の表情に遊ばれていると感じて、準太の顔に瞬間的に朱が走った。
「別にいいスよ。2週間位投げられなくてもシーズンオフだし」
それくらい、利央の為なら高くない対価だ。上手くすれば卒業式まで慎吾の顔も腫れてくれる。

身構えた準太がその視線を一層鋭くしたそのときだった。
ぶふっ。
夕暮れの哀愁ある空気に不似合いな、間抜けな音が部室内に響き渡る。
腹を抱えた慎吾が、腰を曲げて大笑いしていた。
あまりの光景に、準太が呆気に取られたようにぽかんと口を開いている。
横隔膜を痙攣させながら、やっと慎吾が上向き準太をうかがい見た。その目には先ほどまでの鋭さも怪しさも何も無く、うっすらと笑い涙だけが浮かんでいる。
「や、わりーわりー。も、お前最高」
「……はぁ? 何言ってんスか!」
混乱した準太は表情が崩れている。この顔はなかなか見られるモノではないと、慎吾は再び笑みをこぼした。
「あのな、準太。俺、別に利央に告白とかされてねーから」
「え……?」
「まぁ、そう見えたかもしんねーけど」
固まったまま、準太は動けなかった。慎吾は告白されてない。でも、あの場面は……?
「利央も難儀だよ。想ってる相手がちっとも気づいてくれねーから、俺になんかフラフラしてな」
(何だよ、その言い方。それじゃまるで利央の好きな奴が他にいるみたいじゃ……)
立ち上がった慎吾の姿すら目に入っていない準太の様子に、慎吾はその肩をぽんと叩いた。
「一番近くにいるんだよ。近すぎて、その姿がなかなか見えねーんだ」
「……嘘でしょ、だって」
それはすんなりと準太の心に落ちてきた。
準サン、と呼ぶ甘い声。はにかんだような明るい笑顔。
何年も何年も、積み重ねてきた日々が溢れるように浮かんでくる。
「……まあ、あとはゆっくりケリつけるんだな」
部室の入り口へ一歩踏み出し、慎吾は始めてそれまで貼り付けていた笑顔を消した。
すれ違いざまに呟かれた言葉は何処か空白で、遙かな地平へ向かうように切なく消える。

「慎吾さ……」
振り返った準太の目には、入り口に立つシルエットが映った。
拳を軽く突き合わせる挨拶のあと、彼の代わりにこちらへ向かってくる影。
急激にのどが渇いた。
見慣れたはずの顔。ここ数日、思い返すたびに苦しめられたその顔。
「ちわス、準サン」
困ったように笑う顔。遠慮がちに掛けられた声に、確かに歓喜した自分がいる。
「りおう」
呼んだ名前がすんなりと耳になじんだ。今までは当たり前のように呼んでいた名前。今日からはきっと違う意味で特別になる名前だ。
「……オレ、恐いんだ。準サンが何て言うか。その前に信じられない。準サンのこと、好きだなんて。どうしてだろうって、何度も思った」
準太からきっちり1メートル半の距離で止まって、逆光の中、利央はそう切り出した。
――準サンのこと、好きだなんて。
はっきりと告げられた、利央の気持ち。
予想した言葉と同じ告白を受け、準太の心が夢うつつに緩やかに鳴る。
「……ごめん、準サン。でもオレ、準サンが好き」
正直、準太は利央と同じ気持ちだと答える自信がまだ無かった。
慎吾に感じた怒り。利央が自分から離れていくのだと知ったときのあの喪失感。
うちのめされた、途方も無い倦怠感。
それらは全て事実に違いないけれど、果たしてそれが利央を恋愛感情で好きということなのか、まだ迷っている。
けれど。
この震えた指先を、肩を。振り絞ったような声を。
不安に揺れる、目を。

ただ、抱きしめてやりたいと思った。

伸ばされた手が、2人の間の最後の距離を縮める。
宵闇に冷えた晩冬の空気すら温まりそうな、この充実感。
今まで何度も触れたはずなのに、今日始めて触れた気がするのは何故だろう。
「利央、俺もこえーよ。まだ、お前をちゃんと好きなのか全然わかんねー…」
正直にそう言った準太を、利央が首を振って否定する。
指先でぎゅっとその服を握って、離れないで欲しいとすがった。
「いいよ。オレが準サンを好きでいても許してくれるなら、それでいい」
準太を好きになった自分が、準太にどう思われるのか、利央はそれだけが恐かった。
恋なんて、澄んだ気持ちじゃないとそう思っていて。
それを準太に向けてしまう自分が嫌だった。準太もそう感じると思っていた。
だから、こうして手を差し伸べてくれただけでいい。

それだけで、こんなに満たされた気持ちになれるから。
多分もう、利央は準太を好きだという自分を恥じないでいられる。
愛していると、素直に言うことができる。


2人を包む、夜が優しくその場をノックする。
広がる世界の大気は気持ちの良いほど澄んでいて、見上げた空は完璧な青。
そして、訪れる夜は軽やかな紺碧の色。
懐かしく、高く。
そんな至上の場所に運んでくれる風の面影を纏う色だった――。