萌木 -moegi-


暗い部屋に、息を切らせて駆け込んだ。
誰もいない自宅にバタンとドアが乱暴に閉まる音が木霊する。
そのドアに寄りかかったまま、準太はずるずるとその場にへたりこんだ。
冬だというのに、背中に嫌な汗をかいている。
蒼白の顔は普段の彼を想像しえないほど歪んでいて、手足はかすかに震えていた。


信じられないものを見た。放課後、忘れ物をしたからと自分の手をすり抜けた後輩を追って向かった部室。
目的の人物は確かにそこにいたけれど、彼は一人ではなかった。
親しい先輩、和己に次いで二番目か三番目に親しいといっても良いその人にもたれ掛かっていた利央。
慎吾の影になったその表情こそ読めなかったが、呟かれた言葉はまさしく色を表していて……。
『オレに、夜を、教えて』
なんという大胆な告白の仕方だろう。自分は当事者ではないのに、その声に思わず喉が鳴った。
背に回った慎吾の立派な手。次の瞬間には漏らされるだろう、その答えが聞きたくなくて思わず幼馴染の名を呼んでいた。
まるでB級のサイレントムービーのように、その場面が何度も準太の頭の中で巻き戻る。

『ま、恋の病が妥当だろ、俺らの年代じゃさ』
可笑しそうに笑った同級生の言葉。
(利央、お前は…お前の恋の相手は、慎吾さんだったのか)
ああ、だから悩んでいたのだ。あんなに苦しそうな顔をして、赤点を取るくらいに悩みぬいて。
カーペットに落ちた手で準太は顔を覆う。
信じられない位に胸が痛い。
それは、子供だと思っていた幼馴染のあの言葉が衝撃的だったからなのか。
それとも、その相手が慎吾というその人だったからなのか。
けれど、何か違う気がする。理屈じゃない。ただ苦しい。何が、と問われればまったく分からないけれど。

でも。

もう利央の笑顔が自分のものではないのだと。
すがる細い指先は自分ではなく、これからは慎吾を頼るだろう。
どこか甘ったるい声も、眠気を携えた目元も、撫でると心安らぐあのふわふわの髪も、その全てを手放さなければならない。
ただそのことが悔しくて。心の準備も覚悟も、何も出来ていなかった。
眉を顰めたまま、準太は己の両手を切なそうに見つめる。
(何がエースの手だ。こんなちっぽけな……、幼馴染すら繋ぎ止められない手で)
この喪失感の説明を、だれかして欲しい。
そして同時に湧き上がる、慎吾への黒い感情。
無表情のまま利央を見つめていた彼の、その視線が気に食わない。
すがりつく利央の手を引っぺがしてやればよかった。
そのまま掻っ攫って、「お前の告白にあんな視線を送る人なんてやめちまえ!」と叫べばよかった。
悩ませて、苦しませて。そんな人、幾ら先輩でも許せない。

喉が痛い、苦しい。喪失感、それだけでこんなにも視界が歪むのだろうか。
ぐちゃぐちゃだ。こんな歳になってまで幼馴染を手放せないなんて、自分も案外子供っぽい。
「なんで……、慎吾さんなんだ」
暗い部屋に溶けた言葉。その真意を、準太自身さえまだ気づけない。
ただ、星の流れた窓を見て明日学校へは行けないな、とそっと思った――…。




* * *



今日も来ない、か。
朝練習の始まりを告げる集合の声に足を奪われながら、辺りを見回した迅はふう、とため息を漏らす。
自分の知らないところで何かがあった。
それは予想だけれど、でも多分間違いない。

3日前だった。
利央と準太、今期バッテリーとして期待の星である2人が揃って練習も学校も休んだのは。
利央などは赤点からの復帰をして間もなくの事だから、監督もそうとう機嫌を曲げてしまって翌日はこってり絞られていた。
2人揃って欠席した時点で迅は何かあったのだと素早く悟ったが、それが何かは分からない。
けれど、あれ以来準太の休みは続いていて、今日辺りタケが渋い顔をし始める頃だ。
(まさか、とは思うけど……)
いや、まさかではないなと迅は思った。
この前自分が封印した、利央の想い。葬り去った恋心は、けれど利央の心に深く根付いてしまっていたらしい。
何があったかまでは分からないが、きっとそれがばれたのだ。
「俺にも…、責任あるよな」
ずっと優れない利央の表情。あの時自分が止めたのは間違いだった。
応援してやればよかった。たとえそれで上手くいかなくても、すべて素直にさらけ出せていたら…自分の気持ちと時間をかけて見つめ合えていたら、利央はきっとこんな顔はしないだろう。
おせっかいかもしれない、と自分の行動に迅は感じる。
けれど、中学からずっと付き合いのある友人だ。部にとってもかけがえのない存在で、馬鹿であほで間抜けた根っからの善人。

(ごめんな、利央。お前のあの幸せそうな笑顔を俺が押し込めた)

ちらりと、斜め前に見える利央の背中に視線を送って、迅は後悔に胸元の練習着を握り締める。
自分がおののくほど情感たっぷりに、グラウンドの準太を見つめていたあの視線。
緩んだ口元、血色の良い顔色。
『恋をしている』
瞬間的にそう思えた。幸せそうな、色ボケした朗らかな表情。人間の感情のなかで何よりも尊い明るさ。
けれど、その相手が準太だと知っておびえたのだ。
(でも、怯えたのは俺だ、利央じゃない。俺が余計なことしなかったら、きっと利央はいずれそれを素直に受け入れてた)
自分の勝手な主観で行った行為に、迅はなんとも言えない罪深さを感じる。
だが、迅はその仄暗さに引きずられたりしなかった。
彼の性格なのか、ひたすら前を見つめて物事を考える。今もこうして、どうやって解決すればいいのかと考えを巡らせていた。
(放課後準さん家、行くか……)
見舞いに行くという名目でなにか探れるかもしれない。
準太が利央の気持ちを知っているとしたら、きっと戸惑っているだけだと思うから。
(準さんだって、利央の事嫌いにはならねーよ)
気持ちに答えることは出来ないと思っていても、嫌ったりはしないはずだ。
一日が早く終わって欲しいと迅は思いながら練習に参加した。



友人の誘いを断って、部室から飛び出した迅は校門を前に珍しい人物を見かけた。
ここの所受験でまったく姿が見えない、3年生の一人。島崎慎吾だ。
「慎吾さん……?」
門柱に寄りかかってぼんやりと空を見上げている先輩に、迅は遠慮がちに声をかけた。
「よぉ、迅。部活終わったか?」
「あ、はい。久しぶりですね」
ブランクのせいで少しだけ笑顔がぎこちなくなる。部活動の終わるこんな遅い時間まで何をしているのだろうと思った。
「……利央は?」
「え、まだ部室です。俺、今日は準さんの家行こうと思って早着替えしたから」
準太の名前に、慎吾の眉がぴくりと動いた気がした。
それを不思議に思いながらも、迅は慎吾に挨拶して横を通り抜けようとする。
「迅、なんで準太の家行くんだ?」
「それは……、あの、準さん休み続いてるから」
冷や汗が背を伝う。嘘が下手だと自分でも思う。けれど、何も知らないであろう慎吾にわざわざ一から報告するのは面倒だったし、利央の気持ちをバラすのに抵抗があった。
「お前、知ってんのか」
足元に置かれた鞄を背負いなおして、慎吾の瞳が鋭く光った。現役時代と何も変わらない鋭気に、迅は気後れする。
「……何のことですか。何も知らないですよ、見舞いに行くだけで」
「知ってるけど知らない、ってのが正しそうだな。教えてやろうか、何で準太がこねーのか」
びくん、と背が跳ねた。
どうしてとっくに引退したこの人が自分よりも事情に詳しそうなのか、それが不思議で堪らない。
「来いよ。本当は利央と話つけるつもりだったけど、お前の方が早そうだ」
迅の返事を待たずに慎吾は歩を進める。はっとなって、迅はその後を追った。


近所の公園のベンチに適当に腰掛けながら、結局慎吾の迫力に負けて、迅が話をする。
その話に、慎吾は盛大なため息を織り込み、お返しとばかりに3日前の事情を話した。
「ちょ……、慎吾さん、それじゃあ準さん誤解してるじゃないですか!」
「あー、しょーがねーよ。あいつら、2人揃って馬鹿」
迅は力が抜けたようにベンチの背もたれに崩れる。
準太に対する気持ちを認められなくて、追いかけることも弁解することも出来ずにいる利央。
慎吾と利央の誤解をしたまま、恐らく気持ちが定まらないでいる準太。
確かに、どっちもどっちだ。
どうして恋愛とはこう単純にいかないのかなぁ、と自分も少ない恋愛経験ながら迅は思う。
「はぁ。迅、今日どうする。準太ん家行くか?」
「……ええまぁ、様子はやっぱり見てこようかなと」
ちらりと公園内の時計を見やる。少しばかり遅い時間だが、仕方ない。
家族には丁寧に頭を下げるとして、見舞いには行ってこようと思う。
「そんなら明日、何でもいいから学校に来させろ。んで、俺が後でメールした時間に準太部室に連れて来い」
唐突に隣の人物は大きな事を言った。
無理やりにでも引っ張って来い、と言われ迅は肩をすくめる。
(どうにかして、って先輩相手に……?)
ひやりと冷たいものが背筋を伝ったが、断れはしない。きっと慎吾には何か策があるのだろうし、自分にだって利央に対する罪悪感がある。
早く彼らにどういう形でもいいから落ち着いてもらって、肩の荷を降ろしたかった。
「分かりました。後で連絡お願いします」
「おう」
それにしても、こんなに突っ込んでしまっていいのだろうか。
本当は、当人同士の問題のはずなのに。でも……。
「2人とも、不器用すぎますよね」
別れ際、慎吾にそんな言葉を投げかければ、2つ年上の先輩は大胆不敵に笑う。
「若いってことだろ」
点灯した街灯に照らされた慎吾の顔が、笑っているにもかかわらずやけに寂しげに見えたのは迅の見間違いではないはずだ。
(この人、考えてみれば一番損してるよな……)
『たまたま』部室に行って利央に寄りかかられて、しかもその場を準太に見られ憎しみを一手に引き受けて。
そのうえ利央が想っているのは自分じゃないと気づいてるのに、こうして世話まで焼いて。
現役時代、山ノ井とつるみながらよく利央に構っていた慎吾。
けれど、和己や準太が現れるとその場所を惜しみながらいつも譲っていた慎吾。
在りし日の思い出が迅の中をそっと通り過ぎて、なんとなく慎吾の気持ちを迅は察する。

(準さんをなんとしてでも登校させなきゃ)

遠ざかってゆく背中に、迅はそう決意した。
利央のため、準太のため、自分のため。そして切なそうに本心を隠して笑った、慎吾のために。



若い樹木は空を掴みたいと、その手を懸命に伸ばしながら戦う。
芽吹きの色。
大気は未だ真冬のもので、肌を切り裂くほどに冷たいけれど、春の色がすぐそこに迫っている。
夜が帳を下ろした寂しげな道を歩きながら、迅はそれでもその風景に確かな春の気配を感じていた。