濡羽 -nureba-


白い息が大気に溶けた。
乾いた冬の空気が肺に刺さり、胸を焼く。
確認テストの翌日、利央はひたすら走らされていた。

たった数日休んだだけなのに、体力が落ちているのが分かる。
逆に周りは冬のきつい陸上トレーニングで日々鍛えられているから、余計にそれが目立った。
「――っ、は! きっつー…」
赤点の罰走として規定の周回を終え、利央がその場に倒れこむ。
限界まで己の体を苛め抜いた利央の視界の端で、監督が満足げに笑っていた。

グラウンドの端で仰向けになった利央は、上がってしまった息を整えながらぼんやりと空を見上げた。
白煙のように曇った空色が、澄んだ青を隠している。
胸が痛い。
走り終えた直後だからじゃない。一晩経っても晴れない、この気持ち。
(オレは、準サンが好きなの……?)
決して認めたくない、強烈な感情だった。
(だって、そんなの嫌だ)
準太は大事な幼馴染だ。それ以外の何者でもない。
恋なんて、そんなくすんだ色を纏う感情ではないはずだ。
ベルトに挟んでおいたタオルを顔にかけ、利央は項垂れる。

恋なんて、そんなドロドロとした感情を準太に抱いているはずは無い。
ふった・ふられた、浮気した。
三文芝居の連続ドラマのイメージを、利央はひたすらリピートする。
そんなはずない。準太にそんな感情抱かない。

タオルの上で遊ばせていた手を握り締めて、利央は顔を歪めた。
(違う、絶対違う!)
けれど、何度否定しようともその思いは消えてくれない。
ふと油断すればすぐに浮かんでくる、準太の姿。
黒い髪と深い瞳の色、昨日思わず反応した口元。冬でも日焼けしたままの、その腕のなかにおさまりたい欲望。
隣に座り、じゃれ合い、笑顔で顔を付き合わせる。
そんな日々が今はとてもとても遠くに感じた。
許せない。そんな濁った感情を準太に向けてしまう自分が。
苦々しい気持ちを押さえつけながら、利央はようやく起き上がる。

「よぉ、アホ。しごかれてんなー」
頭をがしりと掴まれて、利央ははっとする。どうしてこんなに会いたくない時に、この人は現れるんだろう。
いつの間に近づいたのか背後には準太が立っていて、ボトルに入った飲料を手渡してくる。
周りを見渡せば、丁度部全体も休憩時間を取ったようだ。皆、息を荒げてその場にへたり込んでいる。
「……アリガト」
準太と目が合わせられない。ふと視界に入った彼の指先に触れて欲しくて、胸が震えた。
けれどそれは、自覚する度利央の首を締め付ける真綿の縄だ。
きゅっと口を引き結んだ利央の姿を、準太は隣に腰掛けて訝しげに盗み見ている。
「冴えねーカオ。テスト、駄目そうなのか?」
「そ…うじゃない、けど」
横から覗き込まれて、利央の体が跳ねる。見慣れたはずの顔が、ひどく遠い。
「お前、何なんだよ」
利央の様子が尋常ではないほどおかしなことに気づいた準太は、不機嫌そうに眉を寄せた。
いつもなら無邪気な顔で軽口を叩いてくるはずの後輩が、驚くほど静かに肩を落としている。
確認テストも終わり、これで春休みに向けて気分が軽くなるはずなのに、そんな喜びなど欠片も見られない。
「おい、利央!」
沈黙したままの利央に思わず準太が声を荒げたところで、無常にも集合の合図があった。
ちっ、と舌打ちしながら、準太は早々にその場を後にする。一呼吸遅れて、利央も重い腰を上げた。



「おい、準太。コーハイあんま苛めてやんなよ」
整列して監督の指示を待つ間に、先ほどの現場を見ていたらしい同級生から声を掛けられた。
「別に。あいつがうぜー態度とってっから」
ぶすりと傲慢な顔で言い返せば、その同級生は含み笑った。
「まぁ、お前らが喧嘩するのもいつものことだけどさ。利央、本気でなんか悩んでるみたいに俺には見えたけど?」
「悩みってなんだよ。テスト終わったし、監督にもそんな嫌な顔されずに戻れたし……」
本気でワケがわからない、と準太が首をひねったところで、同級はさらに笑う。
お前もばかだなぁ、と声が漏れ、背中を小突かれた。
「ま、その他っていうと……、恋の病が妥当だろ。俺等の年代じゃさ」
「……何だって?」
ゆっくりと準太が首を動かす。驚きに満ちた目が同級生を捕らえた。
「え。いや、だから好きな女子でも出来たんじゃねーのって話」
「……ありえねーだろ?」
「それこそ何で? 利央の奴、確かに今まではそういう話聞かなかったけど、おかしくねーだろ」
そんな馬鹿な、と準太が口を開こうとした所で、監督の低い声が辺りに響いた。
次の陸トレはポジションごとに分かれるように指示が飛び、準太もその同級と離れざるを得なかった。
(嘘だろ、利央に好きな奴なんて……)
自分とは正反対の一塁側へ走って行った利央の背中は、やはりどこか覇気が無い。
確かに、何かに悩んでいるのは間違いなさそうだった。
けれどそれが恋だなんて。自分にも相談できないような恋を、あいつがしているなんて。
利央に好きな奴がいること、それを自分には報告してこないこと、準太は何故か二重に裏切られた気がした。
だって、今までずっと和己と自分と利央と。
それだけの世界が保たれてきたのに。進学で離れざるをえない和己、恋をしているという利央。
じゃあ自分は……?
ずしんと重たい氷が自分を取り囲んだように準太は感じた。
間違いなく、これは孤独だ。小学校・中学校・そして今までと長い間帰り道を共にした幼馴染が、今度は自分ではない誰かと歩く。
その隣に、いや、視界にさえ自分は映らなくなるだろう。
現に、今の利央の状態はどうだ。自分が話しかけても上の空、いつも浮かない顔ばかり。
腑抜けた利央など見たくは無い。そんな恋なんか、しなけりゃいい。
今までずっと、自分だけを見てきたくせに……。
暗い気分を取り去るように、準太は塁間ダッシュに打ち込んだ。
体を動かしていなければ、異常なほどに気分が悪くなりそうだった。




***




しんと静まり返った部室に、一度校門を後にした利央が再び足を踏み入れる。
どうもぼーっとしてしまっていて、部員各自で記録している自己管理ノートをロッカーに忘れてしまったのだ。
薄暗い部屋を探って、目的のものを手にする。
別に提出義務があるわけではないし誰に見せることも無いのだが、今日は自分のうっかりに助けられたなと思う。
何故なら、準太に下校を誘われていたから。
上手く断る理由が見つかって良かった。
不機嫌な準太を振り切って来たからだろうか、どこか胸がざわめいて落ち着かない。
薄暗いままの部室のベンチに、項垂れるように利央は座った。
ノートを鞄にしまって、両手で顔を覆う。
(こんなんじゃ駄目だ。早くどうにかしなきゃ……、準サンに申し訳ない)
どうしてこんなに気持ちが晴れてくれないのだろう。いや、それ以前にどうして恋という単語がこんなに腹持ちならないんだろう。
(だって、ドロドロしててなんか嫌じゃんか)
ああ、でも。
もしかしてそれは、単なるイメージじゃないだろうか。
いつか思ったように、野球部できちんと彼女がいる奴らは意外にも少ない。
「本物の」恋を間近で見ていないから、こんな気持ちになるんだろうか。

その時、何の前触れも無くがたりと入り口から音がした。
慌てた利央がそちらを見ると、暗がりの向こうに動く影。向こうも同じように、こちらに気づいたようだった。
「……うおっ! なんだ、利央かよ」
点けられた電気の明るさに利央が目を細めれば、懐かしい声が聞こえてきた。
声の主は、勝手知ったる部屋を窺いながら臆することも無く利央に近づく。
「オレだってびっくりスよ。慎吾サン」
受験生モード真っ只中の彼ら3年生は、今の時期もうほとんど校内でも見かけない。
久しぶりに見る先輩の姿に、利央は目を見開いた。
「どうしたんスか、部室になんて」
「ああ、監督のトコに行ったついで。懐かしいと思ってな」
監督のところ……?
首を傾げた利央に、慎吾はふっと笑った。皮肉屋な彼にしては珍しく、なんの影も感じさせない笑い方だった。
「オレ、今日合否発表だったんだよ、大学の」
「え、あ。じゃあ……受かったんだよ、ね?」
にやりと笑うだけの返事を慎吾が返せば、利央はおめでとうございます、と頭を下げた。
なるほど、監督のもとに報告に行っていたのか。
立ち上がった利央に、今度は慎吾が疑問の声を上げた。
鞄を背負いなおした後輩の横顔に、どこか切なげな気持ちを感じ取ったからだ。
「利央、お前こそどうしたよ。随分と余裕のねえ顔してんじゃんか」
「し…、んごさん」
その声は思いもよらず優しいイントネーションだった。冬の冷たい大気に溶ける、柔らかな声色。
同時に肩を掴まれて、利央が俯く。
「言えば? 受験の重みもなくなったし、すこしぐらいは余裕あるぜ、俺」
「……慎吾サン、好きな人いる?」
俯いて静止したまま、消え入りそうな声で利央は答えた。慎吾の目が一瞬揺れて、けれどそれはすぐに落ち着きを取り戻す。
「受験生にそんな暇あるかよ」
「じゃあ、あの、オレのこと……嫌いじゃない?」
一体この口は何を言っているんだろう。頭が混乱している。止めなければと思うのに、自然と言葉があふれ出した。
「ちょっと待て、何だよ、利央」
慎吾が狼狽しているのが伝わってくる。けれど、その手は利央の肩に置かれたまま動かない。
手のひらのじんわりとした温かさに、利央は涙が出そうだった。
こんなことを言っても、事態はなにも変わらないのかもしれない。
だが、知らなければと思った。知りたいと、焦っていた。
恋がどんなものか、行為がどんなものか、知れば少しは準太の目を真っ直ぐ見られるようになるんじゃないかと。
とにかくこの暗い闇から抜け出したい。早く早く……。

「オレに……、夜を、教えて」
向き直って、慎吾の制服を両手できつく握り締めた。額を肩口に押し付けて、ぎゅっと目を瞑る。
きっと聡い慎吾ならこの言葉で分かってくれるだろう、自分の言わんとしている事が。
その証拠に、彼は微動だにしない。幾分冷めたような視線が、ただ自分を見下ろしているのを利央は感じていた。
「夜を教えて、ね。おこちゃまが随分と頑張るじゃねぇか」
もう、いい。
指先が震えている。でも引けない。知らないならば、早く知らなければ。
そうすればきっと準太の顔を正面から見られるようになるはずだ。
今こんなにも嫌な気持ちなのは、きっと知らないからだ。そうに違いない。
利央の背中に慎吾の右手が添えられる。
そして彼が、深いため息と共に口を開きかけたとき、その声をさえぎる様な悲痛な叫びが、慎吾の背後から漏れ聞こえた。
「り おう」
弱々しい、震える声。あまりにも慣れ親しんだその声に、利央は勢いよく顔を上げる。
「準サン……、なんで」
慎吾が上がりこんだまま、部室のドアは開け放されていた。
そこから半身を乗り出して、青い顔の幼馴染が棒立ちしている。瞬間的に、利央も固まった。
見られた。慎吾に身をゆだねている姿を。もしかしたらその前の、意味深な台詞まで。
「……準太」
冷ややかな視線のまま、慎吾が振り返る。その声を聞いた途端、固まったままだった準太の足が動いた。
まるで脱兎のごとく、足元に落ちてしまった鞄を拾ってその場から逃れる。
宵闇の支配し始めた景色に、その背中はすぐに溶け込んで見えなくなった。

「……追わねぇの?」
黙り込んだままの利央に、慎吾が声をかける。俯いたまま、利央はふるふると首を振った。
握られていたシャツから、利央の手がするりと落ちて、慎吾は盛大にため息をつく。
泣いているのか、利央はなかなか顔を上げない。
正直、慎吾には状況が理解できなかったが、何となくの察しはついた。
受験終了早々になんて災難だと内心思ったが、目の前の後輩は間違いなく追い詰められていて。
コレはそう簡単には片付かないだろうと、眉を顰めた。
「利央」
無理やり彼の顎を掴んで上を向かせる。
自分よりも随分背の高いはずの彼の顔が、項垂れているせいで同じ位の位置にあった。
「本気で知りたいんだったら、俺はお前に教えてやるよ。大事な後輩だし、別にお前に嫌悪感もないし。でもな、出来ればやりたくねぇよ。先輩も後輩も、そんときは崩れんだから。俺はこのまま先輩後輩でいるのが心地いいからな」
人様より大分大きい利央の瞳から涙がこぼれた。それはぼたりと慎吾の手に落ちて、床に辿り着く。
「……勢いで言ってな、傷つくのは結局お前だ」
最後に利央の頭を優しく撫でて、慎吾はその場を立ち去った。
ドアに手をかけるその背中を、利央の謝罪の言葉が追う。
「スンマセン…でした」
今までとは違う意味で胸が痛い。
自分を労わる慎吾の顔が切なかった。まるで自分の方が傷ついたような、そんな苦い表情。
否。実際傷ついたのだろう。なんて浅はかなことを言ったのだろうかと、利央はその場に崩れ落ちる。
夜が迫っている。
けれどまだ、この場を動けそうもなかった。


窓の外を、流星が流れた。
けれど、膝に顔を埋める利央はそれに気づくことはない。


何も見えない暗い闇。濡羽色の夜の世界。
けれどその世界は、何故こんなにも深い艶を纏っているのだろう。
夜が更ける。長い長い夜が。
利央はこの世界の抜け道を知らぬまま、ただ取り残されたのだった――。