猩々緋 -syoujyouhi-夕方と夜が入れ替わる時間帯、利央は重い足取りで帰宅した。 補習2日目が終わった。明日の確認テストが問題なければ、また部活に顔を出さなければならない。 「……野球はやりたいけどさ」 自嘲気味に漏れた言葉に、明るい色はない。 補習初日だった昨日、準太からは責めのメールが届いた。 馬鹿だとか阿呆だとか、思いつくばかりの罵詈雑言の後、『早く帰って来い』の一言。 張り裂けそうな胸を押さえながら、何とか当たり障りのない返信をした、あの時のことがよみがえる。 自信がない。準太の前で普通でいられる自信が。 いきなり距離をおいたら、きっと準太は不審がるだろう。 けれど、卒業したい。みっともない子供の独占欲からは。 (もう少しだけ時間が欲しい。準サンと普通に付き合えるように。子供じゃなくなった頃に) どさりと自室のベッドに横になった利央は、ため息とともに天井を見上げる。 明日のテストに向けて少しでも勉強しなければならないのに、体が重い。 もういい、眠ってしまおう。そう決めると同時にそっと目を閉じた。 冬の早い夜がもうそこまで迫ってきていて、部屋は暗い。 その暗さに誘われるように、利央が本当に眠るまでは数分とかからなかった。 *** 母親に叩き起こされて夕食を終えた直後、利央の家にチャイムの音が響いた。 こんな時間に誰かしら、と母親が席を立つ。 リビングのソファに座りながら、テレビを見ていた利央は、ドア向こうから聞こえてきた母親の声に思わず身を引きつらせた。 「あら、こんばんは。準ちゃん、久しぶりねぇ。利央? ええ、いるわよー」 瞬間的に立ち上がって辺りを見回す。 何処か隠れるところはないだろうか、と思ったが、もちろんそんな場所はない。 そうこうしているうちに、玄関からは自分を呼ぶ母親の声。 利央がそれに戸惑っていると、次の瞬間にはがちゃりとドアが開いて、見慣れた幼馴染が顔を出す。 「おい、テメー。何呑気にテレビなんか見てんだよ! 明日のテスト、受かんなかったらそれこそヤベーだろ」 不機嫌露わにこちらを見る準太は、制服のままだった。 おそらく練習の後、直接訪ねてきてくれたのだろう。 「じゅん、サン……」 情けなく声が震えた。たかだか数日ぶりに見るだけなのに、随分と懐かしい感じがして落ち着かない。 「突っ立ってんじゃねー。ホラ、2階いこーぜ」 一度足元に下ろした部活バッグを再び肩に担いで、準太は利央を先導する。 その動作は手馴れたもので、まるで自分の家を歩くかのように遠慮がない。 「ばっちり扱いてやってね」 階段下から掛けられた母親の声に、「うーす」と声を返して、準太はそのまま利央の自室を目指した。 後からついて来る後輩が、まったくの無言であるなど気にしてはいないようだ。 「準サン、何で……」 自室のテーブルに座って、利央が重い口を開く。 心の準備なんてまったくしていなかった。明日までは、会わずにすむと思っていたからだ。 「はぁ? お前がアホだからわざわざ来てやってんだろが。つか、お前、ヤバイならなんで試験前一声かけねーんだよ!」 「準サンだって、人のメンドー見れるほど余裕無いでしょ……」 しぶしぶといった様子で勉強道具を用意し始めた利央を、準太が鋭い眼差しで射抜く。 こんなギスギスした調子で勉強なんてはかどるはずがない。 諦めにも似たため息が利央の口から漏らされれば、準太は余計に眉根を寄せた。 「コーハイ構えねー程じゃねえっつの!」 今度は準太がため息をつく番だ。 ドサドサと大量のノートをテーブルに置いて、それでも利央に向き直る。 「迅から聞いた。数学と化学だって? 化学はともかく、数学なんて公式覚えりゃいいだけなんだから、どうにでもなるだろ」 (ああ、そういえばどっちも準サンの得意科目だっけ……) 広げられたノートは昨年準太が書いたものだ。彼にしては珍しく、整えられている。 好きな科目だと、やはり気合の入り方が違うのだろうか。 「貸してくれるの?」 「その代わり死ぬ気でやれよ。んで、明日すぐ監督んとこ行って謝ってこい」 「……うん」 利央の返事にようやく息をついた準太が、そっと肩の力を抜いた。 その様子に、利央はああ、疲れているんだな、と感じる。 当たり前だ。冬の間の練習は徹底的に体を痛めつける体力向上が目的で、今日も相当ハードに行われたはずだから。 本当なら、さっさと風呂にでも入って夕飯をすませて眠りたいだろうに。 コンビにで買ってきた弁当を探る準太の瞼は重そうだった。 利央はそれに、何ともいえない嬉しさを感じる。 (やっぱりオレ、準サン好きだなぁ) 疲れているのに、こうして心配して訪ねてくれた。 言葉は素直じゃないけれど、多分この様子だと監督にも大分言い繕ってくれているんだろう。 捕手としても、幼馴染としても大事にされているんだと思うと、先ほどまでの暗い気持ちなど吹き飛んでしまった。 「何だよ、ホラ、さっさとやれよ。問題集、解いてみろ」 自分の顔を見つめる利央を不思議に思ったのか、膝に置いた弁当から顔を上げて、準太が怪訝そうな視線を向けてくる。 頷いた利央は、自然と笑っていて、明るい気持ちになっていた。 距離を置きたいと思った。けれど、準太の傍にいるとそんな決心も薄れてしまう。 このままで、いいのかもしれない。 今までだって、何かあったわけじゃない。このままの自分でも、準太は許してくれるんじゃないだろうか。 無理に背伸びは出来ない。 自分が子供なんだと分かって、随分と焦ったけれど、本当はゆっくり前に進んで行けばいいだけなのかもしれない。 「準サン、今日、アリガト」 問題集を解きながらそう口にすれば、準太は口の端を上げて笑う。 「手間の掛かる幼馴染だからなぁ。もう慣れた」 長い付き合いだ。急にこの関係が変わるわけないじゃないか。 このとき、利央はそう安心した。 けれど、この数時間後、それはいとも簡単に裏切られる。 「準サン、終わったよー」 勉強を始めてから数時間。 途中休憩を入れながら行ってきたそれも、もうこのページで終わろうと言っていた。 最後の問題を解き終えて、準太に採点を頼もうと利央が声を掛けるが、それに返事がない。 「あれ、準サン?」 一時間ほど前母親が持ってきた夜食が隣に置かれている。それを飛び越えて、利央は俯く準太の顔を覗き込んだ。 (寝ちゃってる。そうだよね、部活後だもん。疲れてるんだ) ベッドに寄りかかっている体を前に、利央はどうしようか、と戸惑う。 帰ってゆっくり寝てもらえばいいのだが、余りにもぐっすり眠っているから、起こすのが忍びなかった。 「えっと、とりあえず毛布…?」 眠っている準太の頭を飛び越えるように、手を伸ばす。ベッドの上の掛け布団を取ろうとしたのだ。 「……んっ」 その時、利央の首もとの開いたセーターに準太の吐息がかかった。 鼻にかかったような声が同時に漏らされて、利央はどきりとする。 (なに、コレ……) 準太の正面からベッドに手を伸ばしているから、当然自分の鎖骨辺りに準太の顔がある。 眠って体温が上がったのか、その頬に赤みが差していて、ひどく艶かしかった。 薄く開いた口元に、利央の目線が集中してしまう。 (嘘、だ。こんな……) 相変わらず胸が跳ね続けている。 思わず勢いよく手を引っ込めて、後ろに尻餅をついた。 がしゃん、という音と共に背中がテーブルに打ちつけられ、その音に準太の目が開いた。 「……りおー? おい、大丈夫かよ!」 目覚めたと同時にひっくり返っている後輩を目にして、準太は慌てて立ち上がった。 身を起こす利央を支えて、その手を半ば強引に引っ張る。 「おい、何してんだ。平気か?」 「だ…、だい、じょうぶ……」 今自分がしているだろうひどい顔を見せたくなくて、利央は俯く。 準太はそれを多少気にしながらも、ふと顔を上げて青ざめた。 「げ、ヤベ。もうこんな時間かよ…。さすがに帰んねーと殺されんな」 夜も大分遅い時間だ。準太の家とは五分程度しか離れていないけれど、さすがに他人の家に上がりこんでいて良い時間じゃない。 急いで荷物をまとめた準太は、利央に別れを告げて足早に階段を下りて行った。 「じゃーな、利央。明日のテスト、落っことすんじゃねーぞ!」 バタバタという足音が遠ざかる。 準太が母親に一言二言お礼を言っている気配が消えて、そこでようやく利央は動き出すことが出来た。 今、自分は準太に何を感じたのだろう。 瞬間的に飛びのいてやり過ごしたけれど、それは認めたくない感情だった。 『何を感じた?』 背後に悪魔が立つ気配がする。 『子供の独占欲では、なかっただろう?』 目を背けても、唇を引き結んでも、一度自覚してしまった想いは消えてくれない。 『…そんな簡単に片付けられる気持ちでは、なかっただろう?』 低く黒い声が、己の胸を穿つ。 『もう、逃れられない』 夢中で手を振り払い、背後の気配を追い払った。 だけど、その手は震えている。 数日前まで心地よかった距離感は、また遠いものへと変わって利央を崖へと追い詰める。 『もう、逃れられない』 胸に染み込んだその声が、利央の心臓を焦がしつくした。 鮮やかな赤に抱かれている。 燃える想い。それは誰にも――自分自身にさえも阻めない、深い紅の 『恋心』 だった……。 |