鳩羽鼠 -hatobanezumi-


1月下旬。
先日行われたセンター試験の感想を、何人かの先輩が報告がてら部活に顔を出してから間もなく、利央達後輩にも期末試験という難関が間近にやって来ていた。
4日前から試験週間休みに入った部活もそろそろ折り返す頃、なんとなく元気のない友人の様子に迅は首を傾げる。
「利央。なにお前、調子悪いのかよ?」
「えー? 別にィ。でも毎日つまんなくってさー」
昼休み、窓際中ほどの机に突っ伏しながら利央は面倒くさそうに返事をする。
「試験勉強してるんだろーな。部活出来なくなったらますますつまんねーぞ!」
肩をトントンと叩いていたノートの端で利央の頭を小突いた迅は、不機嫌そうに眉を潜ませた。
どこかおかしい。
いつも試験前になると大概大慌てでノートを借りに来る利央が、今回はまったくその気配がない。
親切にもこちらから出向いてやれば、案の定こんな様子で。
まったく訳が分からないと、迅は不気味に思った。
「うーん。だって難しいし…」
「そんなこと言ってる場合じゃねーだろ。もうすぐよそと練習試合だって出来るようになんだぞ」
小言を飛ばす迅に、眠そうだった利央がようやくその上半身を机から離す。
上背のある体は途端に、正面に立ったままの迅との距離を縮めた。
「わかってる。出来る限り頑張るから!」
プイと顔を背けた利央が校庭を見下ろすと、丁度二年生の前半クラスが体育の為にまばらに顔を出し始めている所だった。
ジャージの色でそれを判断した利央は、思わずそこに幼馴染の姿を探して目を細める。
いつも通り、野球部の面々と談笑しながら笑う彼がそこに居た。
(準サン、元気そう。試験前だからって夜更かししないでよね…)

「てめっ、その態度はなんだっつー…。オイ、利央!」
声を荒げた次の瞬間、不機嫌そうに顔を背けた友人のその顔色の変化に迅は驚いた。
先ほどまでこの上ないほど血色の悪そうだった利央の口元が、穏やかに緩んでいる。
今まで見たことのない、色の混じった微笑みに、迅は一瞬躊躇する。
瞬間的に、なにか凍るようなものが背筋を走った。彼の顔は幸せそのもののはずなのに、何処か得体の知れない恐怖が自分を包む。
「り おう……」
冬の明瞭な空気に溶ける己の声が遠い。青ざめて利央の視線を探れば、そこにいたのは紛れもない我が野球部のエースの姿だ。
「利央っ!!」
迅の中で血液が逆流したかのような感情が巻き起こった。
今しがたまで左手で遊ばせていたノートを床に放って、思わず利央の肩に手を掛ける。
「迅、なに。ちょ…、顔色悪いじゃん!」
強引に振り向かせた利央は、自分の顔色を見ていつもの利央に戻った。
どこか遠い場所に行ってしまいそうなあの雰囲気が彼の周りから消えて、迅はほっと息を付く。
「……わり。平気だから」
するりと力の抜けた左手が、利央の肩から滑り落ちる。まだ冷たく沸騰している頭で、何とか足元に落ちたノートを拾った。
クラフト素材のノートを摘み上げる己の手が震えている。

まさかそんな。

よぎったのは信じられない考え。
ここで打たなければ負ける、そんな打席に立ったときと同じように鼓動がうるさい。
試合中と同様、それをなんとか鎮めて迅は利央と視線を合わせた。
「迅、ホントに平気なワケ? 顔コワいよ」
「大丈夫だって。――2年生、体育なんだな」
軽く窓向こうに移った迅の視線を追って、利央が弾むように首を回す。
上気した頬が、その答えだと迅は瞬間的に悟った。
「多分マラソンだよね。準サン、長距離嫌いだから途中でサボりそう」
「……利央、お前最近よく準さん見てるよな?」
ノートを机の上に置いて、迅が呟く。その言葉に、利央は首を傾げた。
「えー? そうかな。まあ試験週間入ってからあんまり会わないし、幼馴染だからなんとなく視界に入ってないと落ち着かないんじゃないかな」
怪訝そうに眉を寄せる利央に、隠匿の影はない。
(こいつ…、本気で気づいてないんだ)
迅の頭の中で警鐘が鳴り響いた。このままきっと、自分の気持ちに気づかないほうが利央は幸せになれるだろう。
ただでさえ野球部でバッテリーを組む間柄だ。
きっと利央の心の底に湧き上がっている感情は、その妨げになる。それどころか、大切な幼馴染という関係すら打ち崩してしまうだろう。

(気づかないほうが、絶対幸せだ……)
迅の胸が一瞬切なさに震えた。酷いことをしようとしている。
自分の勝手な価値観で、せっかく生まれてくるかもしれない、この淡い桜色の霞を消し去ろうとしているから。
けれど、ここで忘れられるならその方がいい。気づかないまま消えてしまうなら、その方がお互いしこりを残さないはずだ。
利央に分からないよう、背中で組んだ指を握り締め、眉根を寄せた迅が利央に迫る。
「あのなぁ。お前、もうコドモじゃねーんだから、ほどほどにしろよな」
「え……」
迅の言葉に、利央は鳩が豆鉄砲を食らったような顔を作った。
同時にその言葉に胸が震えた。
ここ最近、毎日がつまらなかった。試験週間だと言うのに、勉強する気にまったくなれない。
移動教室の最中、登下校、休み時間。
自然に視線が追うのは、ひとつ年上の大切な幼馴染。
先日、部活中に準太が他人に話しかけられ自分が除外されたとき、面白くなかった。
同じように、ラブレターを貰って告白された準太の返事が気になった。
(オレ…、準サンを誰かに取られたくなかったってこと…?)
そう思った次の瞬間、無意識に右手が口元を覆った。
この上ない恥ずかしさが足元から頭のてっぺんまでを駆け巡り、迅から顔を背ける。

――…これは、『子供の独占欲』だ。

己が準太に寄せている感情を、利央はそう感じ取ってしまった。
もう一人の幼馴染、和己がいなくなるのを直前にして、残った一人を繋ぎ止めたいと言う、単純な嫉妬。
オモチャを人にとられまいとする、子供の癇癪に良く似たこの感情を、利央は一人胸の中だけで片付けてしまう。
「…オレ、まだぜんぜん親離れできてない子供じゃん」
顔を覆った利央は、恥ずかしさの頂点にあった。
まさか、高校に上がってまでこんなに幼い部分が残っていたなどと、認めたくない。
迅にそれを悟られただろうかと、机の上に項垂れた。

一方迅は、利央のそんな様子に自分の言葉が上手く利央をごまかせたのだと知る。
もしかしたら、彼は気づいてしまうかもしれない。
そんな諸刃の剣的役割だった言葉は、けれど彼には素直に受け入れられるものだったらしい。
(利央、違うんだよ。お前が子供だから、準さんを独占したいんじゃない)
咽元まで出かかった言葉を嚥下して、予鈴と共に迅はそっとその場を立ち去ろうとした。
チャイムが鳴ってくれて良かった。もう、この場にいるのはいたたまれないから。
「おい、ノート置いてくからな。ちゃんと勉強しろよ!」
突っ伏したまま頷いた彼を見やって、迅は足早に教室を抜けた。理不尽な思いをさせた利央を見ているのが辛かった。
(利央、お前は子供じゃない。子供じゃないから…準さんが特別なんだ)
このまま、いずれ生まれてくるはずだった利央の思いを知るのは自分だけなのだ、と思う迅の胸が痛む。
人知れず葬り去った赤子を、自分だけが知っている。


――それは決して忌み嫌われるものではなく、白く透き通るような、綺麗なものに違いなかったのに。



 ***



試験週間があけ、週末中に教師によって採点されたテスト用紙が続々と手元に帰ってきていた。
テスト終了と同時に他県へ合同練習に出かけた野球部の面々は、地元に帰った早々目にしてしまった白い用紙に思わず目を背ける。
手元に戻ったその数枚を、利央はため息と共にくしゃりと丸めた。
赤点だ。今日から数日間行われる補習に出席しなければならない。
勉強はしたつもりだった。少なくとも、いつもと同じ位の時間、なんとか机の前に座って数字の羅列にも耐えた。
だけど、今回圧倒的に足りなかったのはその集中力。
部活で鍛えられたそんな能力も、試験前のあの出来事が頭に浮かんで発揮できなかった。

未だ幼い自分を、恥じる気持ち。
そんなモヤモヤがずっと晴れてはくれない。

週末久しぶりに顔を合わせた準太の視線を、思わず外したあの時と同じように、利央は力なく前髪をかき上げた。
「利央!お前赤点とったって、今、石井が…!!」
授業の間のわずかな休み時間に、教室に飛び込んできたのは迅だ。
息を切らせている。どうやら走ってきたらしい。
それだけでは迅が息が上がるなんて考えられないから、余程驚いて階段でも駆け上ってきたのかもしれない。
「うん…。数学と化学…、今日から3日も練習出られないや」
「それだけじゃないだろ!レギュラーが赤点って…監督に何言われるか」
首筋に浮いた汗を振り払うように、迅が乱暴にネクタイを緩める。信じられないと、その目が言っていた。
利央は確かに勉強が出来ない方の部類に入るけれど、赤点はいつもなんとか回避していた。
野球だって頭が良くなきゃ出来ないんだぞ、と豪語する監督に、ましてやレギュラーがこれでは言い訳の仕様もない。
伏目がちに丸めたテスト用紙を眺める利央に、迅はそれ以上声を掛けられなかった。
「……ばっかやろー。だから、勉強しろって…」
迅の胸に苦い思いがよみがえる。もしかしたら自分の一言が、利央を追い込んだのではないのかと。
そんな迅の思いを余所に、無常にも本鈴が学校内に木霊した。次が移動教室の迅は慌ててその場を後にする。

友人の遠ざかる背中を見ながら、しかし利央はどこかで安息感を覚えていた。
(3日間、準サンと会わなくってすむんだ…)
無意識に目が追ってしまうほど、会いたいと思っていた彼の存在が今は忌々しい。


距離をおきたい。これ以上惑わされたくない。
子供な自分を卒業したい。


利央はこの時、準太と暫く距離さえ置けさえすればそれが出来る気がした。
本当は、もうとっくに子供時代など過ぎ去ってしまっているのに。
己の心を支配するその感情が何かなど気がつけないほど、利央は純粋だった。
同姓にそんな気持ちを抱くはずもなく。
ましてやそれが、長年付き合ってきた幼馴染でそれがいきなり変わってしまうなどと。
さらに、その相手が敬愛する準太、その人で。
ドロドロとした汚い感情を、まさか準太に差し向けているなんて。

(もう、準サンの顔を見るのが辛い…!)

恋だと自覚できればまだ納得のいくこの場面で、それに気づけない利央は哀れだった。
胸を締める感情に、思わず固い金属のそれを握り締める。
だがしかし、見守ることを信条とするその神は、彼に何も答えない。


くすんだ雲が立ち込める。晴れはまだ彼方に遠い。
凍てついた冬の大気が、利央の心を押しつぶしてしまいそうだった――。