紫紺 -shikon-


和己の予備校の講義再開に一歩遅れて、正月休みを終えた桐青高校野球部の練習も再開された。
専用の外部グラウンドからは、威勢のいい澄んだ球児たちの声が冬の空に吸い込まれては消えてゆく。
準太も利央も、久しぶりに嗅ぐ土と風の混ざり合った匂いに、心を弾ませていた。


「3球!」
全体練習が終わった後、監督は早速ポジションごとの調整を命じた。
準太達投手陣には正月休みで鈍った体を呼び覚ます為に軽いメニューが組まれたが、その目は真剣そのもの。
座って球を受ける利央の声も、いつになく力強かった。
「ナイボー! 準サン、球キレてるよー」
立ち上がって準太に球を返す利央の、マスクの下の顔がほころんで花が咲く。
「こんくらいの休みで鈍るわけないだろ、アホ」
その様子を幾分冷めた視線で流し見ながら、1球1球投げるごとに大袈裟に褒める利央に準太が釘を刺す。
仮にも、この強豪校の正捕手。いつも受けているのなら褒めるだけじゃなくって、もっと具体的に指摘してほしいものだ。
どうもこの幼馴染は人に対して甘い部分があるから、準太も余計に自分で考えながら投球しなければならない。
(まぁでも、和さんとはタイプが違うだけで、もう慣れたけどな……)


真冬とはいえ、時刻はお昼近く。
全身運動を繰り返す準太の額に、じわりと汗がにじみ出る。
帽子を取って袖で額を拭った彼に、丁度声をかけてきたチームメイトがいた。
「準太ぁ、悪い、ちょっと――」
ネットで仕切られた投球練習場に足を踏み入れたチームメイトに、利央から球を受け取った準太が振り返った。
その彼の声を聞いて、利央も動きを止める。
準太のクラスメイトでもある先輩だった。いつも移動教室で連れ立って歩いている所を良く見かける。
昨年末の練習で怪我をした彼は、今はマネージャーの仕事を手伝っている。
(スコア……かな?)
隣り合った二人が何枚か束ねられた用紙を覗き込んでいる。
声が多少潜められていて、利央は聞き取ることは出来ない。
だが、その表情は二人とも穏やかで、とても練習中の緊張感を持っていない。
(何か、不謹慎じゃないの…?)
利央の胸に何かよくない感情が湧き上がった。
親しげに準太の肩に掛けられたその手、いつになく笑顔の準太。
だいたい、投球練習を中断させているのだ。
準太も、一言くらい自分にも断りの声をかけてくれたっていいはずなのに。
利央はミットの中に手を伏せて、ぎゅっと握った。そうでもしないと、耐えられそうになかった。


「利央。おい、こら」
名前を呼ばれて顔を上げる。もう既に、準太のそばにはチームメイトの姿はなかった。
「ぼーっとしてんな、練習中だぞ」
準太の言葉に、利央の表情が険しくなる。
その大事な練習中に、なんともだらしのない顔で今まで喋っていたのは誰だよ、と心の中で呟いた。
けれど、ここでそれを言ったら間違いなくもめる。
話の種はスコア用紙だろうし、まったく野球に関係ないともいえないから、利央も強く抗議できなかった。
準太には分からないように小さくため息をついた利央がパンッ、とミットを叩いて構えなおすと、準太もピッチングポジションをつくる。
空気を切って放たれた一球は、見事なものだ。
けれど、なんとなく先ほどの光景が頭から消えてくれなくて、利央はそれを素直に褒める気がしなかった。
「ナイボー」
どこかおなざりになった利央の声色を、準太は目ざとく聞き分ける。
「なんだよ、どこか気になる所あるんだったらちゃんと言えよ」
返された球を手元でくるくると遊ばせて、準太が尋ねる。
利央は緩く首を振ってそれに答えた。
「何でもないっス。ちょっと集中力が切れただけで…、スンマセン」
「ああ、悪かったな。倉貫が――」
建前に隠したわずかな嫌味を、準太は多少理解してくれていた。
ただし、彼は待たされたことに怒っているのか、という程度にしか感じていない。
それでも、いつもは滅多に折れない準太が素直に謝罪の言葉を口にしてくれたことで、利央も幾分気分が晴れる。
けっして自分が軽く見られているわけではないのだ。
はにかんだように笑って、伸びをして座りなおす。
「いいスよ! じゃー次、変化球いきましょうか」
けれど、この時に感じた微妙な違和感は後に利央を悩ますこととなる。
それはだれにも予想できない、かすかな歪みだった。


* * *


それから間もなく、短かった冬休みは終わりを告げ、新学期がやってきた。
週始めの月曜日は授業が長い為に部活動が禁止されている。
今日はミーティングもなく、準太と利央は久しぶりに日のあるうちに家路へとつくことになる。
「ミーティングないなんて、さすがオフシーズンって感じッスね」
「ああ。寒すぎて嫌になる」
どうせ帰る方向が同じだからと、利央はこんな日でも準太を迎えに彼の教室へ向かった。
そのあと、二人で和己のいる教室までさらに迎えに行ったのはもう半年も前までの話だ。
二人きりの下校も、随分前から違和感がなくなっていた。
「準サン、寒がりなのに厚着嫌いだよね。風邪ひかないでくださいよ」
「厚着すると動きづらいんだよ。着膨れして縦にも横にもでかい後輩は暑苦しいし」
真横を歩く利央の、紺のマフラーをぐいぐいと引っ張って、準太が笑う。
息苦しそうにしながらも耐えている後輩をからかうのが面白いのだ。
そんな準太をひどい人だ、と思いながらも、利央も嫌ではなかった。
であったばかりの頃、準太はそっけなくて冷たくて。あの時の寂しさに比べたら、こうして意地悪でも構ってくれる方が数倍嬉しい。

準太の教室でしばらく談笑してから階段を降りたため、既に学校内に人気はない。
西日の差し込む下駄箱から、お互いに靴を取り出した。
下駄箱は、学年ごとに分かれているために利央は準太に背を向ける形になる。
靴を片手に振り返ると、黒い髪の先輩は神妙そうな顔をして手元の封筒を見つめていた。
(あ。ラブレター…)
瞬間的に、利央はそう思った。
手元から無意識に靴が滑り落ちた。スニーカーのゴム底と、コンクリートの床がぶつかって廊下に不安定な音が響き渡る。
びりびりと、準太が封筒の端を破ったのはその音とほぼ同時だった。
そのまま二つ折りされた手紙の、短い文面を読み終えた準太の表情が怪訝そうな表情に変わる。
そしてその様子から目が離せなくなっている利央に、準太は唐突に話しかけてきた。
「なぁ、利央。今日って寒いよな」
「は。え? まぁ、そうッスね」
訳が分からないながら、なんとか言葉を口にする。
利央の返事にはぁ、と大きくため息をついた準太は足元に置いたままだった鞄を肩に掛けなおして靴を履いた。
「利央、校門で待ってろ。あんまり遅いようだったら先帰っていいから」
「え、準サン。何……」
何、などと自分でもよく首を突っ込めたものだ、と一瞬の後利央は思った。
手紙がラブレターならば、告白されに行くか、返事を言いにいくかに決まっているのに。
利央の言葉に答えないまま、準太は裏門の方へ向かった。
置いていかれた利央はそれでも、大人しく校門の脇で待つ。

(準サン、遅いな…)
ブレザーとコートの袖口に隠れた腕時計を確認して、利央の表情が暗くなった。
門柱に隠れるようにして身を縮めているが、吹きさらしのこの場所は酷く寒い。
遅かったら先帰っていいぞ、という彼の言葉が耳に響いた。
(先帰れって、言ったってさァ)
こんな寒い思いをしているのに帰りたくないのは、少なからず結果が気になるからだ。
もちろん、告白されに行った準太の返事が、である。
することもなく暇をもてあます利央の脳裏には、様々な思いがよぎる。
準太に手紙を送った主は、可愛い人だろうか。
けれど、少なくとも準太は手放しに喜んでいない様子だったから、告白の成功は難しいかもしれない。
(でも、そういえばオレ、準サンとそういう話したことないなぁ)
誰々が好きだとか、誰と誰が付き合ってる、とか。
思春期の男子らしく、猥談くらいは多少話もするが、不思議とその手の話題は余り出ない。
野球部自体がそんなこととはかけ離れているからかもしれない。
「彼女持ってる先輩とかも、少ないし…」
最も、毎日毎日野球漬け、休日返上遠征当たり前ではおちおちデートだって出来ないだろうな、と利央は思う。
例え付き合っても、それでは彼女をおなざりにしているようになってしまうし、自分だったら嫌だ。
好きな人なら、大切にしたい。いつも一緒にいたい。
そんなことを考えながら、そういえば自分に好きな人がいないのだと気が付いた。
(女子と話す機会、少ないしな…)
高校生位になると、女子と男子の間にははっきりとした線が見え始める。
一部を除いてそんなに気楽に話す機会も減るし、特に休み時間には寝ているか部の仲間で両脇を固めるような自分では、それが当たり前だ。
――準太は違うのだろうか。
女子と気軽に話す彼の姿は想像できないけれど、野球部のエースでそこそこ顔も良くてというならば、憧れる人もいるのかも知れない。
そこまで考えたところで視線を上げれば、ちょうどこちらに歩いてくる準太の姿が利央の目に映った。

「準サン!」
軽く手を上げれば、準太もそれに答えて足を速めた。
「なんだよ、まだ帰ってなかったのか」
「すっごい寒かったー。優しい高瀬先輩、お礼に何かおごって下さい」
「何言ってんだ。俺は先に帰ってもいいって言ったんだから、勝手に待ってたお前の責任だろ」
冷ややかな目線で制された利央は、ぶぅ。と口を膨らませる。
それに準太が笑って、「肉まんな」と呟いた。
後頭部を小突かれた利央は満面の笑みで、数歩先を歩き始めた準太の背を追いかける。
そしてさりげなく、待っている間ずっと聞きたかったことを口にした。
極々自然に。興味のある後輩として。
「ねぇ、準サン。やっぱり告白だった?」
「あ? …まーな。来てくれるまでずっと待ってる、なんて書かれたらたまったもんじゃないだろ」
「なんで?」
「今日寒いって、お前が言ったんだろ。ありゃ脅迫だぞ」
ああ、と利央は思い当たった。怪訝そうな準太の顔。突如聞かれた言葉。
下駄箱を前にしたときの一場面が頭の中に浮かんで、利央は苦笑する。確かに、脅迫みたいなものだ。
(でも、それはその人が一方的に書いたことだから、いかなくても準サンの罪じゃないのに)
普段意地の悪い人だけれど、こんな所は優しいんだよねと、利央の胸が温かくなる。
準太がこういう人だから、好きになる女の子も多いのかもしれない。
「きれいな人? 付き合うの?」
自分の頭の上から首を伸ばす後輩を、準太の左手が邪魔だと押しのける。
眉をやや下げて、浮かない顔で答えた。
「いや…。どうせ野球ばっかで、そんな暇ないだろ」
「そっかー!」
頷く自分の声が、弾んでいた。その事実は利央を一瞬打ちのめす。

(オレ…、何でこんなに喜んでるんだろう)

明らかに、準太が相手を断ったと聞いて安心した自分の心。弾んだ声。
その理由が分からない。
けれど、それを考え込まんとする利央を準太の言葉が邪魔をした。
「コンビニ着いたぞ。一番安いやつだからな」
取り出した財布で頭を小突かれて、利央ははっとなる。
慌てて、彼の消えた店内へと足を急がせた。


一瞬よぎったはずのその答えを、もっと早くから探せていれば、もっと穏やかにこの変化を認められたのかも知れない。
利央は、この時広がり始めた心の霧に…、迷宮夢に気づく事ができなかった。


――深い紫色をした、人の抗えない感情に。