薄紅 -usukurenai-


迎春。

新年を迎えるこの日に、何故「春」等と不釣合いな言葉が使われるのだろう。
明るいお祝い気分が街中に溢れる中、こたつで丸まって利央は考える。
珍しく年末から振り続いた雪に、寒さが堪える。
木々には溶けかけた雪が凍りつき、そのせいで空中に冷気が漂ってまるで冷蔵庫みたいだ。
こんなに寒いじゃないか。春なんてまだまだ遠い単語に違いないのに。

(寒い、眠い。このまま寝ちゃいたい……)

仲沢家の正月は質素だ。
玄関にしめ飾りこそあるものの、基本的に諸手を挙げて正月を祝うことはない。
(うちはクリスマスが本番だもんね……)
その証拠に、クリスマスとそのイブには帰宅していた兄の姿がない。
居れば居る分弄られ倒されるだけなのだが、こう暇だと本当に怠け者のようになってしまう。
「お正月番組、もうあきたー」
コタツの中で半回転。長座布団に頬をつければ、たとえようのない眠気が襲ってくる。

テレビでは、新人お笑い芸人が場を盛り上げようと下手なギャグを繰り返している。
観客の大きな笑い声すら、眠気に支配された利央の耳には届かなくて、彼はついに目を閉じた。

それから、少しの時間もたたない頃、利央は半分以上こたつの掛け布団に埋まった頭を小突かれて目覚める。
丁度夢うつつになった頃合い。
一番気持ちの良い時間帯を邪魔されて、彼は思わずぶすりとした寝起き顔を上向ける。

「正月からごろごろ寝てんな、どあほう」
聞き覚えのある声に、不細工顔を作っていた利央はぎょっとする。
慌てて身を起こせば、そこにはやはり、ひとつ年上の幼馴染が立っていた。
「――じゅ、んサン!」
紺のダッフルコートを小脇に抱え、いつも通りキレイだけれど意地の悪そうな顔でそこに立つ彼は、 そのまま利央の顔の正面にある左足でもう一度額を小突いた。
オリーブグリーンの靴下に隠されたつま先が、密かに利央の皮膚に刺さってかすかな痛みが走る。

「痛っ! 痛いって!」
堪らずに起き上がると、中腰になった準太にさらに頭をがっしり掴まれた。
「それがわざわざ正月から訪ねてやった先輩に対する言葉か? ん?」
口角がきれいに上がっているが、その目は笑っていない。
覚えのある恐怖を感じて、利央の眠気は一気に解消した。
「ひ…っ、スンマ センっ」
利央が青ざめると、準太はようやく怒りを解いてくれたようだ。
そもそも、新年早々挨拶もなしに人の家に上がりこむ自体、失礼極まりないはずだったが、この二人にはいつものこと。
10年来の付き合いだからこそできる事だった。

「…今年は早かったね、準サン」
眠気の覚めた頭で、利央が首を傾げる。準太も遠慮無しに彼の温まるこたつに足を入れて、その中でまた利央の足を小突いた。
「午後から天気下り坂らしいぜ。お前、ごろごろしてるだけじゃなくって天気予報くらい見ろよ」
準太の言葉に、ああ、そういえば母親が朝起きてそんなことを言っていた気がする、と利央は思った。
「こたつで気持ちよさそうに寝やがって。犬は犬らしく庭でも駆け回ってろよな」
「ひっどい! オレ、犬じゃないって何回言えば……」
続く言葉は、準太にぐしゃぐしゃに撫でられた頭の衝撃によって遮られた。
どうもこの先輩は自分のことを手間のかかるペットか何かだと思っているらしい。
たしかに、出会った頃、変わった見目のせいでなかなか友人のできなかった自分は、幼馴染の準太と和己、二人について回っていたけれど。
自分達の後をついてくるという利央のイメージが、きっとそこで準太の中で確立してしまったのだろう。
困ったことに、利央はそれが嫌ではなかった。
確かに言葉は乱暴で、いつもいつも兄と同じようになじるけれど、今頭を撫でるこの手は優しい。
長い付き合いのせいでお互いに家族のような関係が築かれていて、その穏やかさが心地よいから。


正月に、近所の神社へ初詣に行く。
ここ数年変わらない新年の行事だった。
本当は、準太と利央、そして和己が加わるのが常だが、今年はそうもいくまい。
何しろ、二人が尊敬する先輩はもうすぐ大学受験。
一生を決める大事な人生の岐路だからこそ、いよいよ自分達にかまっている暇はないはずだ。
こたつの中に入れた手を擦り合わせながら、準太は懐かしい人の顔を思い浮かべる。
部を引退した和己とは会う機会が少なくなっていた。
たまに校内ですれ違うときには笑顔で談笑をしたりするが、冬休みに入ってからはそれもとんとない。
これから三年生は自由登校になるはずだから、ますます会う機会は少なくなるだろう。

憂鬱だ。
特になにか相談したいとか、話さなければならないことがあるとか、そういうことではない。
けれど、今まで当たり前に傍にいた人に会えないというのは、なんとなく寂しい。
ましてや和己は、野球でもプライベートでも自分が尊敬してやまない大先輩だから。

ふう、と軽いため息をもらした準太に、利央が不思議そうな目を向ける。
その視線を軽くかわした準太が、そろそろ出かけるかと利央に声をかけようとした時、玄関のチャイムがそれを阻んだ。
「あ、来た!」
利央が嬉しそうに声を上げる。
もしも彼が犬ならその尻尾をはちきれんばかりに振っているだろう。
飛びあがって玄関に向かうそんな利央の様子に、準太は笑った。
(なんだ、親戚から食いもんが届く予定とか?)
まぁいい、と準太は立ち上がって鞄の脇に置いておいたコートを手に取った。
早めに済まさないと、天気が気になる。
若干雲がかかり始めた冬の空を覗いて、軽く頷いた。

「準太、明けましておめでとう」
コートに袖を通し終えた準太の背後からそんな言葉が掛けられて、彼は慌てて振り向いた。
間違うはずもない、えくぼを浮かべた見慣れた笑顔がそこにある。
「和さん…、えっ。どうしたんスか!」
随分間の抜けた声が居間に響いた。
微笑む和己の後ろから、彼に隠れきらない長身の後輩が面白そうに笑っていた。
「利央、お前…。受験生に迷惑かけんな!」
直感的にこいつの仕業だと勘が働いて、準太は和己の後ろの利央を睨みつける。
「わ、ちょ…。待ってよ、準サン!」
手を振り上げた準太を見て利央の顔色が変わった。
慌てて和己の背に隠れるようにして縮まる。
「準太、まあ落ち着け。いいんだよ、俺から連絡したんだ」
一歩近づいた準太を両手で宥めて、和己がもう一度笑った。受験の疲れなど感じさせない位の快活さだった。
「和さん。だって、大丈夫なんスか? 入試、もうすぐでしょ」
「いい息抜きになるさ。冬休みに入ってからずっと予備校通いだし、それもまた明後日から再開されるしな」
その言葉に嘘はないようだったから、準太もしぶしぶ引き下がることになった。
和己の背から手を離した利央は、助かった、という様子で息を付く。

「さて、じゃあ早速出るか。午後から天気が良くないそうだから…」
二人が落ち着いた頃合いを見計らって、和己が声をかける。
二人の間に和己がいるのは随分久しぶりで、自然に三人とも笑顔になった。
やはり、この距離感が気持ちいい。
それぞれの役割がいつの間にか決まっていて。
包み込みながら叱咤激励してくれる和己という存在は、改めてあり難いと二人は感じた。



* * *



小さな神社であるにも関わらず、境内は近所の参拝客で溢れかえっていた。
例年以上に人が多いと感じるのは、やはり午後からの天気の崩れを意識して訪れる人が多いからだろうか。
人の波に押されながら、三人は離れないようにとなんとか踏ん張る。
とっくに人波にさらわれても可笑しくはない状況で、まだこの隊列を守っていられるのは、 ひとえに部活動で鍛えた体が役に立っていると言う以外ない。
それでも、願掛けを終えて人の列から抜け出した頃には、三人ともよれよれだった。
「な、んで今年はこんなに人多いんだろう…」
ほつれたマフラーに渋い顔をして、利央が誰ともなしに訪ねる。
同じく、引っ張られてよれたジャンパーのフードを直しながら和己が頷いた。
「やっぱり、天気を気にしたんじゃないか? ほら、大分雲が出てきた」
境内の端に移動しながら、三人は上を見上げる。無防備な喉もとが冬の空気に見せ付けられる。
「ホント、出てきたころよりもヤバくなってますね」
準太が何ともなしに口にする。
確かに、鉛色の雲が分厚く空を覆っていた。


「そういえば、二人ともあの凄い人の中ちゃんと願い事出来たか?」
帰りの道すがら、細い道を一歩前で歩いていた和己が首だけで振り返る。
利央と準太はもちろん、と頷いた。
「オレ、今年も沢山野球できますように、って」
「はは。甲子園に行けます様に、じゃなくてよかったのか?」
和己の言葉に、利央は笑顔で首を振る。
「行けるか行けないかは、オレたちの努力次第じゃないスか。だからそのためにも、いっぱい練習できますように、って」
予想していなかった返事を聞いて、一瞬和己の目が見開かれた。
けれど、それもわずかの間で。
「お前らしいな、利央。準太は? やっぱり部活か?」
「俺はちゃんと和さんが志望校に合格するように祈りましたよ! まぁ和さんなら余裕でしょうけど、頑張って下さいね」
「ははっ、有り難いけどなー。コレばっかりはどうしようもないな」
和己が苦笑すると、準太は心配そうにその視線を辿った。
余計なプレッシャーをかけたかと、言葉を詰まらせ、話題を変えようとたどたどしく口を開く。
「そ、そういう和さんこそ、ちゃんと願い事できました?」
「ん? ちゃんと出来たぞ。桐青高校新バッテリーがケンカしませんように、って」
何気なく紡がれた言葉に、準太と利央の歩みが止まった。
無表情に固まった刹那の間が、驚きを露わにしている。

「和さん……」
くしゃりと、準太の顔が破顔した。隣の利央もそれは同じことで。
言い表せない感情が、一瞬にして胸を支配した。
その感情をやり過ごせるほど大人ではない彼らは、なんとか言葉を発することで涙を堪える。
情けないにも、程があるから。涙を見せたくはなかった。
「……和さん、大事な時期なんだから、自分のこと願いましょうよ…」
「つい心配でな。お前たちの世話をやけるのもあと少しだと思うと…」
和己も準太たちの数歩先で立ち止まって振り返る。いつもの優しげな微笑が、どこか寂しそうだった。

和己の本命大学は神奈川だ。
合格すれば当然一人暮らし。住みなれたこの町を出てゆくことになる。
「最近、自分が卒業した後のことを色々考えるよ。…でも、悪かった。もう『新』バッテリーなんかじゃないよな」
秋季大会を立派に戦う後輩達を見て、和己は喜びと同時に戸惑いも覚えた。
もう戻ることのない輪に思いを馳せれば、一抹の寂しさがそこにある。
けれど、それはどれだけ願ってももう手に入れることは出来ないから。
後を追ってこの感情を知ることになるだろう幼馴染の二人を、せめて見守りたいと、最近はずっとそう思っていた。

一瞬今日の雨雲のように暗くなりかけた空気をぶち破ったのは、利央の声だった。
「絶対、甲子園いきます! 準サンと…二人で。でも…だから、見に来てください。 和さんいたから、オレ、はっきりとした目標、あるんだから」
はっきりと言い切った利央に、和己は笑顔を見せる。
小学校入学の前に、呂佳を通して出会った利央はほんの小さな子供だった。
まだまだ甘えっこで、誰の後にもついて回っていた。
そんな子供が、こんな目をするようになったのだ。けれど、その分自分も成長している――変わっているはずだ。
その明るい希望に、和己がもう一度笑った。
「連れて行ってくれ、もう一度。お前たちが」
自分の高校野球は初戦負けで終わったけれど、きっともう一度あの舞台へ足を踏み入れられるだろう。
このたくましい幼馴染達が、約束してくれたから。
二人の肩を抱いて、和己は何度も頷く。
準太も利央も、黙ってそれを受け入れた。
「はい。必ず…。絶対来てください」
準太も、和己の肩にそっと触れた。自分の球を受け続けてくれた確かな存在がそこにある。
そして今は、利央の肩がそれを引き継いだ。


やがて、その抱擁は緩やかに解かれ、それぞれに帰路につく。


淀んだ空を見上げながら、利央は吸い込まれてゆく吐息をその視線で追った。
(和サンがいなくなる。オレと準サンだけになる。少しだけ、何かがおこる気がする)
今までずっと、三人がそれぞれバランスをとってきていた。
三人でいることが当たり前だった。
利央が馬鹿をやって、準太がそれに突っかかって、和己がなだめて。
それは三人に共通して、とても心地よい時間だった。
笑いあうことは単純で、とても幸せで――、何にも変えられない、得がたい関係性。

けれど、一人欠ける。それも要でもあった大事な人が。今まで温かく見守っていてくれた存在が。
小学校よりも、中学時代よりも、もっとずっと遠くへ……。

和己という大事な存在が欠けたとき、この心地よい空間はどのように変わってゆくのだろう。

肌を刺す冷たい空気のせいだけではない。
得体の知れないわずかな不安が、利央の体を震わせた。


(何か、変わってしまいそうな気が……するんだよ、和サン)


それは淡い赤を纏ったかすかな、けれど確かな予感だった――。