*たいようのはな*(JR・ちったいたん番外編)


ここ数ヶ月勉強していた、資格試験に落ちた。
ちくしょう、これ取れてりゃ大学の前期末試験、免除になる科目があったってのに……。
というのは建前で、本当は将来の為に喉から手が出るほど欲しい資格だった。
だから、大人気なく癇癪起こして、家族の誰とも……足元にすがる利央すら振り切ってそのまま不貞寝した、ある夜。


朝。
資格試験前の睡眠不足を補うように、随分長い間眠ったはずだったが、俺の目覚めは良くなかった。
昨日よりも和らいだイライラはまだどこか体の奥で燻っていて、頭がガンガンする。
曜日を確認して、一科目だけのために大学に行くのも億劫だと思ったが、生憎先週も同じような理由でサボったので、今週は出席しなければならないだろう。
深いため息を漏らしつつ、俺は階下へと足を運んだ。
早速洗面所に向かおうとしたところで、耳を劈くような泣き声がリビングから聞こえてくる。
今この家であんな風に泣くのは、もちろん一人だけしかいない。
落ち込みに追い討ちをかけるように、ぎゃんぎゃんと騒ぐ利央の声が邪魔だった。
「なに、どーした?」
頭を抱えながらリビングへ行くと、必死にあやそうとしている母親に抱かれた利央が、その腕を嫌がるように暴れていた。
「りおうくんがねぇ……」
困ったように顔を崩す母親の言葉を、利央の泣き声がさえぎった。本当にうるさい。
なまじ利央は滅多にこんな風に泣かないから、なおさらそれが目立った。
「やぁだぁ、きるのぉっ!!」
何度か利央の大声にさえぎられながら、母親から事情を聞くと、どうやら利央はヒマワリがプリントされたTシャツを着たいらしい。
生憎洗濯中のそれを、母親が何度も言い聞かせるが、利央は引き下がらない。
やがて、あまりの泣き声の大きさに、普段もう少し遅くまで寝ている父親までもが起きだしてきた。
この場にいないのは、部活の朝練に向かった弟だけだ。
「りおうくん、こっちのくまさんもかわいいじゃないか。それとも、電車にしようか?」
子供好きの父親が、幾つか別の服を持ち出した。それでも利央の癇癪はおさまらない。
「いやぁ、ひまわりっ!」
鼻をすすりながら騒ぐ利央は、もう何分もわめきっぱなしだ。
そのあまりのうるささに、黙って耐えていた俺は遂に大声を上げる。
「りおう、いいかげんにしろっ!」
途端、リビングはいつも通り静かな朝を取り戻す。
涙が今にもこぼれそうになっている瞳を見開いて、利央がこちらを凝視した。けれど、俺の言葉は止まらなかった。
資格試験に落ちたイライラで、半分八つ当たりしていたかもしれない。
「わんわん泣きゃあ何でも思い通りになると思ってんのかよ!Tシャツなんて、なんでもいいだろーが!」
「う…、わあぁん!」
眉根を寄せて凄んだ俺の様子に、利央は再び泣き出した。
もうどうでも良くて、俺はそのままくるりと背を向ける。
「準太、待ちなさい!」
ドアを閉める向こうで、父親が非難する声が聞こえる。
だけど本当にどうでもいいと思った。とにかく少しでも静かな所へ行きたい、ただそれだけ思って、父親の声を無視した俺は自室へ向かう。
やがて、その騒動がおさまってゆくのをうっすらと自室で感じながら、家中が静まり返った頃支度を終えて、俺は再び階下へ赴いた。
『朝ごはんは適当にすませなさい』
簡素な書置きだけがキッチンのテーブルに残されている。
利央は幼稚園、父親は会社、母親もパートへ出かけたらしかった。
「うっぜぇ……」
リビングには、利央と必死に格闘したのだろう、様々な服が所狭しと散らばっている。
それを苦々しい気持ちで睨みつけ、俺は家を出た――。



昼過ぎ、大学の講義を早々と終えて俺は家へ戻った。
友人から遊びの誘いを受けたけれど、とてもそんな気分じゃない。
鞄から適当にキーケースを取り出して家へ入る。
それを待っていたかのように、急に廊下へ電話の呼び出し音が響いた。
「……はい?」
くっそ、誰だよ。めんどくせーなぁ!
乱暴に受話器を取りながら応対すると、それは利央の通う幼稚園からで。聞かされた言葉は衝撃的だった。
『――…すみません。りおうくんが、園からいなくなってしまって…、本当にすみません』
動揺した様子の若い保育士は、震える声でそう告げた。
その後続けられた後半の言葉は俺の耳に殆んど入らなくて、半ば放心状態で受話器を置く。
数秒後、はっとなって母親の勤め先に連絡を入れ、サイフも持たずにそのまま家を飛び出ていた。
無意識に走っている。とりあえず幼稚園から家までの道筋を走って走って……。それでもりおうは見つからない。
そのまま、商店街、森林公園、近くの河川敷――。
気が気じゃなかった。何でだよ、とかどうしてだよ、とかそんな思いばかりが頭の中をループする。
そして辺りが夕闇に染まり始めた頃、ようやく俺の足は止まった。
あがった息が酷く冷たい。顔は火照っているはずなのに、血の気が無いのがわかる。
『いいかげんにしろっ!』
今朝怒鳴りつけたあの言葉が胸に痛い。
自分の八つ当たりに泣かされた利央。あれが原因だったなら…、と暗い気持ちになる。
額に浮いた汗を拭って、アスファルトに視線を落とせば、後ろポケットに振動。慌てて通話ボタンを押す。
「りおうはっ!?」
母親の携帯番号だ。てっきり見つかったのかと声を弾ませるが、残念ながらそうではない。
『母さん今幼稚園なの。警察にも頼んだから…、一度家に帰って、りおうくん帰ってないか、準太、様子を見てきて』
いつも気丈な母親の声が弱々しい。そのことが余計に事態の重さを物語っていた。


ずしんと気分を沈ませて、俺は再び自宅へ足を踏み入れる。
誰もいない、暗い廊下。そういえば、ここ数ヶ月こんな雰囲気はこの家になかった。
遠い親戚の利央がうちに預けられて、もう四ヶ月目。
よくも悪くも、あの小さな子供は家に嵐を呼び起こし、こんな静寂など吹き飛ばしていた。
「りおう…、どこにいるんだよ」
すでに園を抜け出してから数時間。子供の足で一体どこまで向かったのだろう。
まさか事故にでもあって動けないんじゃないかと、暗い家ではそんな想像ばかりが働く。
俺が項垂れて、どれだけの時間がたっただろうか。辺りは更に薄暗くなっている。
もう一度探しに行こうと腰を上げた瞬間、大学から帰宅したあの時と同じように、電話の呼び出し音が響いた。
同じように、けれど違う意味で乱暴に受話器を取りながら、慌てて声を出す。
「もしもし!」
『あ、高瀬さんのお宅ですか。――署の者ですが、仲沢利央くんの――』
警察!そして利央の名前。思わず「見つかったんですか!」と声を荒げてしまって、相手は驚いたようだった。
そして続きを促せば、無事に保護できたという知らせ。嬉しさと安堵感で、受話器を持つ手が震えた。
再び家を飛び出しながら、母親に連絡を取る。電話の向こうで泣いていた。



「りおう!」
指定を受けた交番で、警官に囲まれた利央の姿を発見する。
俺の姿を見た途端、利央は走り寄って来て、今朝のように大声で泣いた。
けれど、今度は俺もそれを遮らない。
少しばかり砂に汚れた交番の床に膝をついて、すがりつく利央をただ必死に抱きしめる。
温かな子供体温が、とても心地よかった。
「じゅんちゃ…、ごめん なさいぃー」
顔をぐちゃぐちゃに歪ませて、利央が謝る。
それにいいんだよ、と答えながら、柔らかな髪を撫でてやる。
わんわん泣き続ける利央に、見かねた警察官がティッシュをボックスごと俺に手渡した。
「……ほら、りおう。お巡りさんに見つけてくれてありがとうを言え」
警官に頭を下げながら利央にもそう言う。俺の腕の中で大人しくなった利央は、素直にそれに従った。
それにしても、よくこんな所まで来たものだ。
迎えに来たこの交番は自宅からも幼稚園からもそれなりの距離がある。
大人の足ならそれほど大したものではないが、まだ三歳の利央にとっては大冒険に違いない。
一体こんな所に何しに来たんだろう。ただ単に、迷ってしまったのだろうか。
「いやあ、近くの植物園にいましてね。巡回中の者が偶然見つけたんですわ」
人のよさそうな中年警官がそう言って、俺の腕の中の利央に笑顔を向ける。
植物園?聞かされた意外な単語に、俺は驚いた。
「りおう、お前なんでこんなとこまで来たんだ」
よくよく観察すれば、利央はボロボロだった。
この間買ったばかりの靴も汚れ、手も洋服も土だらけ。幼稚園の名前プレートさえ、汚れてよく見えない。
そして何故か、右手に握り締められたままの小さなヒマワリ。
ヒマワリ…?そういえば朝、だだをこねていたのもヒマワリが関係してなかったか?
「ああ、ええ。その花を探していたみたいです。花屋さんにも聞いたりして……。でも、まだ少し時期が早いでしょう。どこにもなくて、それで人づてに植物園に行き着いたようですよ」
警官の説明に俺はますます首を傾げる。
なんでまた、そんなにヒマワリにこだわるんだ?確かに、ヒマワリが咲く時期はもう少し先だし、温室のある植物園なら何とか手に入るかもしれないけれど。
「りおう、ヒマワリが欲しかったのか?」
「うん! じゅんちゃん、あげるの」
はい……? 俺にくれるって? またどうして。
「じゅんちゃ、きのうもきょうもいたそうなかおしてるの。ひまわり、あかるいはなだって、たいようのはなだって、まえにいった!」
先ほどの泣き顔とは一転、きゃあきゃあと笑いながら利央は言う。
その言葉の意味を理解して、俺はその場に崩れ落ちるかと思った。
どうしようもないほどの慟哭。天地逆転するほどの嬉しさと切なさ。
「……お前、俺が落ち込んでたから、元気付けようとしたのか」
利央の言葉に覚えがあった。何かの童話。読み聞かせをしながら、太陽に向かって咲くヒマワリはその力をいっぱい貰って、人を元気にする明るい花だって。
俺にとってはもうおぼろげな、何ヶ月も前の話だ。けれど利央はそのかすかな思い出を手繰り寄せて、全身全霊で俺を想ってくれていた。
その小さな手足を土に汚して。子供には辛い、けれど大人に取ってはちっぽけな道のりを、人に聞きつつ一生懸命今はまだ時期ではない、その花に辿り着こうと。
「りおう、朝はごめんな、怒鳴ったりして」
「いいよ! じゅんちゃ、わらって!」
朝からずっと、考えてくれていたのだ。
大好きな幼稚園、大好きな友達、大好きな先生、大好きなオモチャ。そのどれもを放り出して、俺の元気のためだけに探し続けた利央のけなげさを、俺はただ笑うことで受け入れる。
謝ること、お礼を言うこと。それだけしか出来ない。
顔を歪めて目元をくずせば、微笑んだ利央がまた心配顔。
「じゅんちゃ、ひまわりだめだった? ちいさいのしかなくて、ごめんなさい」
堪え切れなかった俺の涙を、抱いた利央が腕を伸ばしてそっとふき取る。
ちいさなちいさなその手の温かさに何故かとても安心した。


――…りおう、お前の笑顔こそ、太陽の花。力いっぱい咲いて、見る人をみな幸せにする。