*眼差し深し月長石*※「神殿の建たぬ土地」で和さんと慎吾さんとで話をして家に帰った利央+呂佳の1場面。 薄暗く変わり始めた大気の色が、利央の体にまとわりつく。 昨日までなら、家へと向かうこの足が、とても重苦しく感じていた。けれど今日、それは嘘のように軽い。 (和サンに、話せたから……?) 先程別れた、和己と島崎。二人の顔を利央はそっと思い浮かべる。 呂佳のこと。 二人とも心配していた。多分学校でも家と同じように、凶暴な気を発し続けているのだろう。 自分とは違い、大きく逞しい、けれどあの敗戦から影を感じるようになった兄の背中。 彼は今日もまた、無言で夕食を終えるのだろうか。 再び首を持ち上げ始めた暗い想像を、首を振って追い払い、利央は自転車を降りる。 いつの間にか、いつもと同じように見慣れた玄関が自分を出迎えていた。 「たーだーいーまー!」 己を奮い立たせるように、利央は勢い良く扉を引いて、明るい声を発した。 今日こそは、兄と少しでもまともな会話をする。 あの日から表情をなくしたままの顔を、少しでも変えてみせる。 (それがたとえば、怒りだって構わない。……だって兄ちゃん、最近口先だけでしかモノ言わねーんだもん) 「お帰り。練習着は?」 靴を脱ぐ利央のもとに一足早く帰ったらしい母親が、エプロン片手に2階から降りてきた。 利央は「これ」と鞄から泥だらけのそれを渡し、窮屈なネクタイをしゅるりと解く。 「……兄ちゃんは?」 自分の脱いだ靴の横、一回り大きなスニーカーが鎮座している。 部も引退したはずなのにいつもどうやって時間を潰しているのか、遅い時間まで家に帰らない兄にしては珍しい。 「お風呂みたい。母さんが帰る前からいたわよ?」 「……そか」 弱く笑う母親に、利央も習った。 家族はみんな、心配してる。だけど呂佳はその気配すら嫌がっているようだった。 このまま家に寄り付かなくなったら、などと数日前父に漏らしていた母親が、少し安心したように微笑む。 そのまま視線を外して、利央は着替えの為に2階の自室へ上がった。 そしてそのままドアノブに手を掛け、ふと気づく。 「あれ、兄ちゃんの部屋、電気ついてる……?」 かすかに零れるオレンジの光。 部屋を出る際にはいつも潔癖なくらい電気の類は消してしまう兄にしては珍しい。 自室の入り口に鞄だけ放り投げ、利央の足は自然と隣室へと向かっていた。 (うわ、汚ねーし) ひょいと軽く部屋を覗いて、利央は眉をしかめた。 それは記憶の中にある兄の部屋と家具の位置こそ変わらないものの、今まで見たことも無いほどに荒れ果てている。 引き寄せられるように数歩足を踏み入れると、早速足元でカサカサと乾いた音。 「あ、ヤベ。なんか踏んだかも?」 紙切れだ。淡い間接照明に照らされて黄色がかって浮かび上がったそれを、利央は摘み上げる。 自分が踏みつけてしまったから、幾分皺がよっているように確認できる。 「コレ……」 紙を裏返し、利央の目が見開かれた。ありえないものを見ている。 ――スコア、だ。 「嘘だ。まさか……」 そしてその瞬間、はっと気づく。 飛びつくように散らかされた部屋をかいくぐって、利央はベッドや机の上に散らばる紙切れを集める。 そのどれもをひったくるようにしてその場所から奪い、その脳に視認させる。 「これは夏大。こっちはシニア大会の……、練習試合のまで!」 そのどれもが、県内の様々な中学やシニアチームのもの。 こんなに色々なチームのスコアばかり手元に置いて、兄は一体何を考えているのだろう。 「……リスト?」 走り書きされた数々の人物名。 数人分には、既に取り消し線が引かれたり、丸や二重丸、果ては三角にまで細かく分別されている。 (ちょっと、まってよ。これって……) 利央の足りない頭も、数人の有名どころの名を見つけた時点でようやく動き出した。 けれど、一番意識のはっきりした場所でそれが納得しない。 だって。 兄は、野球から遠ざかっているものだとばかり思ってきたから。 滝井の言葉を無視して、いまだ殻に閉じこもっているとばかり、思っていたから。 「……なに勝手に人の部屋入ってんだ、オメーは」 聞きなれた重低音が背後から響いて、反射的に利央の背がはねる。 紙の束を抱えたまま、ぎこちなく振り返れば、風呂上りのため肩から湯気を出した呂佳がそこに立っていた。 「オイ、誰が見ていいって言ったよ?」 不機嫌そうに、彼は利央の腕からそれを引き抜き、隣の机にバサリと投げる。 それを放心したままの利央の視線が力なく追って、自分より頭一つ以上高いもう一度見上げる。 「兄ちゃん……、何、あれ」 「はぁ? 見てワカラネー馬鹿はオメーくらいなもんだな」 ズカズカと利央の横を通過して、呂佳は脱ぎ散らかした制服を片付ける。 兄のあまりのあっさりさに、利央は信じられない思いでその姿を追った。 「兄ちゃん! 答えてよ!」 利央はぎゅ、と両手を握り締め、呂佳に詰め寄る。 「……だから、滝井とのこと知ってんだろ、オメーは!! そうゆうことなんだよ!」 掴まれそうになった腕を乱暴に振りほどき、呂佳は声を荒げた。 久々に見る、本気の怒気だ。 「美丞のコーチ……、引き受けるの?」 静かに空気に溶けた言葉に、呂佳から返事はない。 けれど、この兄の性格からして沈黙は肯定だ。 (じゃあ、ここのところ休みの日に家にいないのって……) 膨大な資料とチェックリスト、そして有力チームの人材のリストアップ。 考えなどしなくても、自然と答えは導き出される。 知らず唇を噛み締めた利央の指先が震えだす。 寒いわけじゃない。恐いわけでもない。 これは歓喜、だ。 「兄ちゃん、野球……捨てないんだね?」 声が震えている。目に温かいものが溢れて、利央の顔を汚した。 リストを手に持ちベッドにどかりと腰掛けて、呂佳はそんな利央を横目で流し見る。 暗闇に光る眼差しは、記憶の中と同じもの。 深く深く、飲み込まれてしまいそうな程、強い色を秘めた瞳だ。 「……明日もイネーからな」 パチリと電気を消して、呂佳は腰を上げる。 呟かれたのはそんな言葉。 明日は土曜日。きっとまた、何処か有力チームの視察へ駆け回るのだろう。 消え入りそうな声で、利央はうん、と頷く。 兄の後をついて部屋を出る瞬間、振り返ったそこには、ただ月光が優しくその場を照らす情景があった。 胸高鳴るその光景を、利央は噛み締めるように心に焼き付ける。 神様、と。 幾重にも数え切れないほどの、感謝と共に。 けれど、歓喜に震えるその身体はただ一つ、見逃していた。 暗がりで光った、ほんの少しだけ拭いきれない呂佳の瞳の中の霧を。 月光に怪しく輝く、乳白色の濁りを――…。 あとがき番外編4作目は利央と呂佳さんの一幕でした。(短めですみません;) 和さん達との会話の中で「休みの日は一日中外にいるし」と出しましたが、鋭い方には気づかれてしまいました; そーです、スカウト活動だったんです、ね; 「神殿〜」は原作で滝井さんとの絡みがよく分からないうちに書いたのですが、何とか繋ぐ事ができました。 多分、兄がコーチをすると知って利央はホントに嬉しかったと思います。 兄の姿を見ているから、和さんにもあんなメールしたんだろうなと思うと、感極まるものがありますね。 2008/11/17 |