*春風予報*


人気がはけて静かになった部室に鍵を掛け、河合和己は野球部専用グラウンドを後にした。
新学期を今日から迎え、高校へと続く並木道には薄桃色の絨毯が心地よい芳香に塗れて広がっている。
時刻は間もなく、朝のホームルームの始まる頃。
学期始まり初日から遅刻はまずいと、背負い直した鞄の肩紐をぎゅっと握って下り坂を早足で歩く。

そんな折、直線的な坂道の先に自分と同じグレーの制服を見つけ、和己はそちらに目をやった。
相手も気付いたのだろう、こちらに向かい手を上げてくる。
「和己、わりーな、鍵貸してくんね?」
小走りで駆け寄ってきたのは見知った相手。
「慎吾。どうした、もう始まるだろ、授業……」
「忘れもん。部室、もう閉めちまったんだろ?」

ちゃり、と軽い金属音を立てたそれが和己の手から慎吾へと渡る。
「サンキュ」と呟いて、慎吾は和己の脇をすり抜け――けれど、何か言い忘れた様子で振り向いた。
明るい色の短髪が春風に吹かれて自分の目線で僅かに揺れる。
その色にいつだったか……、思い出を呼び覚まされた和己の口元は知らず孤を描いていた。



入学間も無いころ、自分とこの男はそれほど仲が良いという間柄ではなかった。
それは自分が中学からの内進組だったからでもあるし、この島崎慎吾という男がどちらかというと口数が少ないことにも関係していた。
なによりも野球技術は――春の大会からベンチに入れた自分とは違い、この強豪校の中では特に目立たない、普通の内野手だった。
ただひとつ目立ったのは天然だという髪の色がほんの少し周りよりも明るかったことくらい。
よく見れば顔立ちも特徴のあるものだったが、和己がそれに気付くころにはもう夏も間近になっていた。

そうそして、その頃にはもう自分は学年リーダーとして上の学年にも監督にも期待され、様々な雑務と重いプレッシャーに追われていた。
ようやく名前を覚えたその外部入学生――島崎慎吾が、そんな自分をさりげなく気遣っていたことに気付いたのもその頃だ。
練習後学年用の部誌が、いつの間にか机に用意されていた。
マネージャーに告げて補充しなければならない用品のリストが、いつの間にか彼女らに伝わっていた。
分析用に探さなければならないスコアは、誰がやったのかある程度整理済みだった。
――目立たなかったはずのその外部生のプレイは、初夏を迎える頃、思わず目をむけるほどになっていた。

『……いつも悪いな』
机の上にはいつもの部誌。
自分の背中側で着替えを続ける同級生。
『なんのことだよ、学年長』
からかうような視線に、ああ、こういう性格だったのか、などと知る。
あの頃から、一緒にいると楽な存在だった。
親友とも戦友とも、少しだけ違うニュアンス。
どんな言葉もしっくりとはこないのだが……。



「和己」
思い出のなかより少しだけ低くなった声が和己を呼んだ。
上半身だけで振り返り、相変わらずイタズラ交じりの視線でこちらを見ている。
「なんだ、早く行って来ないと遅刻だぞ」
「……6組だとよ」
「ん?」
「一年間、よろしく、主将」
垂れた目に茶目っ気を含んで慎吾は再び背中を向ける。
最後の言葉に、和己はようやく彼が呟いた『6組』の意味を理解した。
ああ、なるほど。これで自分はわざわざ正面玄関前の掲示板を見なくとも、迷わずに教室までいける。

三年間。三回目。
短いチャンスで、まさか同じクラスになる年があるとは思わなかった。
けれど、これで一年間自分は――…。

「助かるよ、慎吾」

心から零れ落ちた一言は、すでに十数メートル離れた彼に届く事はない。
けれど、この晴れやかな春の空。
この先を予報する、軽やかな春の風。
やはり、自分の目で見てこよう、と和己は正面玄関を目指す。
五分くらい、きっと教師も目を瞑ってくれる。
なにせ今日は、とっておきの春の日なのだから。








なんとなく、この二人の距離感は面白そうだなと思いました。
本当に表す言葉がない関係性、という感じ。

2010/03/28