*物思いする香り*


「お待たせいたしました」
和やかに落とされた声と共に、俺の前に置かれたのはもう何杯目か分からないコーヒーのおかわり。
薄茶色の泡を浮かべて、芳醇な香りを辺りにふりまくこの店のオリジナルブレンド。
角砂糖を一つ、ポンとその液体に落とすと自然とため息が漏れてくる。
ちらり、外を見上げれば鉛色の雲から落ちる、針みたいな雨。
先程から弱まりもしていないが、強まったりもしていない。
真冬の雨はきっと刺すほど冷たく、目の前の交差点を行き交う人々を襲ってるんだろう。
「……あのアホ。おせーよ」
店内の主柱に掛けられたアンティックな振り子時計に視線をやって、俺はもう一度ため息をつく。
ごくりと飲み込んだコーヒーは美味いけど、そろそろ胃にキツイ。
あの馬鹿は、どうやらせっかくの日に俺を胃潰瘍にでもしたいらしい。


2月2日。
今年もなんの変わりも無く自分の誕生日がやってきた。
『ねー準サン。じゃあ、今年はどうやってお祝いすれば良い?』
年明け辺りからあのアホ面で聞いてきたのは中学からの馬鹿な後輩。
それを自分で考えられないのがあのアホがアホと呼ばれるゆえんだ。
というよりも、お前今の時期それどころじゃないだろ、と。
『しらねぇよ。……ああ、あれか。目の前のアホが一匹、俺に世話かけさせなくなることとか?』
冗談交じりに言ってやれば、むっと口を尖らせた後輩はサイアク、と唸る。
そんな顔するから弄り倒したくなるんだっつーの。
学習しないアホな後輩は、やっぱりアホだ。


ガヤガヤとわずかにざわめく店内。
待ち合わせ時間から既に30分近く。
遅れる、と一方的にメールを送ってきておきながら電源の入っていないらしい携帯電話。

遅い、遅いと思う。イライラと心の奥がざわつく。
けれど、ソレと同時に変な期待感がこの口元の笑みを作るのだ。
擬音にすれば、多分ワクワク。
3分の1ほど減ったコーヒーに口をつけて、もう一度。

人を待つのは嫌いじゃない。
特にそれが、こんなうわっついた気持ちを呼び起こしてくれるような奴ならばなおさらに。
……だってそれは、俺がアイタイって思ってるからだろ。
この変な期待感も、お前に会えるって、多分無意識に俺が認識してるからだろ。
なぁ、利央。
だからもう少し待っててやるよ。

むわり立ち上る空炒りされた香ばしい匂い。
白い湯気が雨空をかき消す、この喫茶店で。
冷たい雨を吹き飛ばすみたいな、お前の晴れた笑顔を思い出しながら。

「早く来いよな」
苦い、奥深い。そんな香りを胸いっぱいに吸い込んで、にやりと笑った。
遅れてきたあいつを、どうやってなじってやろうかと思いながら。




***




「あ…っ、スンマセン!」
駅構内ですれ違いざま、人と肩がぶつかった。
慌てて発したオレの声に反応した初老のサラリーマンは、別段何を言うことも無く、また人混みの中へ消えてゆく。
カーキのミリタリーコートが酷く重く感じる。
フードのふちを飾る茶色のファーが、首筋に浮かんだ汗を吸い取って濡れているのが分かる。
地上へと続く地下鉄の階段を、全速力で駆け上る。
隣のエスカレーターから「わぁ、頑張るねぇー」なんて言ってる揶揄するようなおばちゃんの声が聞こえたけど、そんなの気にしない。
砂埃の匂い。
きっとまだ雨は止んでいないんだろうな、なんて想像した所で、人工じゃない光が見えた。


サー、サー、と軽い音を立てる冬の雨。濡れた足元からひんやりと冷気が伝わってくる。
急いでビニール傘を開いて自分の頭上に掲げて目的の場所へ走り出す。
右手に握った準サンへのプレゼント。濡らしちゃったら、大変だもんね。
……って、こんなぐしゃぐしゃじゃ、見栄えの点じゃあどっちみち一緒かも。
でもいいんだ。だってさ、きっと準サンびっくりすると思うから。
なんたって、オレ自身が一番驚いた。
こんなことあるんだって、ホントにさ。神様って、凄いよね!

走りっぱなしで上がった息。
やっぱり現役時代と今じゃ、体力の差なんて歴然かぁ。
これでもちょっとは準サンの球受けたり、してたんだけど。
そうしたら、目の前の交差点は丁度良いタイミングで赤に変わった。
あはは、やっぱりちょっと今日はついてるかも。
膝に手をついて足を止めて乾いた肺に目いっぱい酸素を送る。
もうそろそろ約束の時間から30分。
うー…ん、準サン怒ってるよなぁ。
せっかくの誕生日。また一年という時間の差を、オレが噛み締める日。

「……電話、来ないし」
長い信号を待ちながら、後ろポケットで沈黙するソレをそっと取り出す。
「あ!」
上がったマヌケな声と同時に、信号が変わって両サイドの通行人が歩き出す。
泣きたいような気持ちで、オレも再び走りだし、携帯を握り締める。
充電、切れてる……。
ヤバイ、ヤバイヤバイ!
気づかなかった。そういえば昨日、うっかり寝ちゃって充電してない。
連絡が来ない、のではなく繋がらない、のだ。
烈火のごとく怒りを露わにしたあの人が目に浮かぶ。

「……で、でも、この紙があるしっ!」
今日は自分だって負けない。きっとこの誕生日プレゼントが全ていい方向に働いてくれる。
ようやく見えた、目的の喫茶店の姿。
窓側よりも一つ奥のテーブルに、頬杖をついて手元のカップを弄る準サンの姿が見える。
飛び込んだら、きっと。
眉を思い切り寄せた、不審な顔して。
『おっせーよ!』って怒鳴る。
でもきっと、オレが素直に謝ると、不機嫌ながらも許してくれるでしょ?
そういうときの準サンのカオ、オレ好きだよ。
だって遅い、って。時間を気にしてくれてたんでしょ。待っててくれたんでしょ。
……オレのこと、好き、って事でしょ。

木造りの見慣れた扉を開ければ、ほら。
冬の雨のもの悲しい匂いが、コーヒーの温かい香りに変わる。
何か考えてるような、そんな準サンが気づいて振り向いて。
オレがダイスキな、あの言葉を言う。
だから、このプレゼント、何よりも喜んでくれるはず。



――準サンと一緒の大学の、合格証明書。





(オマエなぁ、おっせーんだよ)
(ゴメンネ、準サン。郵便、いつもよりも遅くって)
(はぁ? なに言ってんだ……)
――くしゃくしゃ、パサリ。
(春からも、宜しくお願いします。先輩)
(……はーぁ。また世話のかかる奴と一緒かよ)

言葉と表情が、合ってないよ、準サン!
お誕生日、オメデトウゴザイマス!