06: まほうのことば澄んだブルーで飾られた初夏の快晴。 河川敷に造られたグラウンドの広い砂原を、清涼な風が駆け抜ける。 どうしてこんなに、グラウンドという場所は心上擦らせてくれるのだろう。 高校時代と同じ、弾む気持ちは何にも代え難い宝物だと俺は思う。 「ライトー!!」 「おっしゃ、まかせろ!」 威勢のいいチームメイトの声が辺りに響く。 他大学のサークルと、二ヶ月ぶりの交流試合。 ピッチャーマウンドから打球の行方を目で追いながら、俺はその視線を石畳の段上へと外す。 「じゅんちゃー」 甘い顔で俺に手を振る、利央がそこにいた。 日焼け防止のためのアームカバーと日傘をばっちり完備した、母親もその隣に座っている。 「りおう、ちゃんと見てろよー」 チームメイトがグラブにボールを収めたのを確認しながら、俺も手を振り返した。 それにしても。 子供っつーのは本当に面白い。 野球のルールなんて殆んど知らないはずなのに、雰囲気で分かるのだろうか。 チームのピンチになると鬼でも睨みつけるようなしかめっ面。 かといえば、俺がヒットを打つといつも見せるはちみつの笑顔に変わる。 そんな利央の百面相を楽しみながら、俺は攻守交替して打席に立ったチームメイトを鼓舞する。 「ニシハラ、打てよ!」 「おうよ!」 気合の入った声。やっぱりいいな、野球って。 「じゅんちゃ、がんばれー」 メットを被りネクストサークルに腰を落とした俺の背後から再び利央の声がする。 ああ、そうか。 久しぶりにやる野球にこんなにも心躍るのは、利央が見に来てるからかもしれない。 ここまですこぶる調子のいいピッチングも、利央が応援してるからかもしれない。 ……いいトコ見せたい。 まるで気づかないようなふりをしながらそんな事を思う。 ちらりと視線を送れば、真っ直ぐにこちらに帰ってくる利央のまなざし。 『じゅんちゃん、じゅんちゃん!』 キラキラ水晶玉みたいに輝く目は、そう呼びかけられているようで。 オイオイ、今打席にいるのは俺じゃねーぞ? 初めて見る野球の内容なんてそっちのけ。 俺のどんな姿をもその目に入れたいらしい利央。 そんな利央の敬愛の眼差しが心地いい。あいつの心を独り占めしてる瞬間。 温かい太陽の日差しに包まれるような感覚に、俺は思わずにやけてしまう。 その顔を母親に見られたくなくて伏せた所で、カインというどこか抜けた金属音が高らかに鳴った。 はっとして顔を上げると、重力に逆らった白いボールが空へ舞い上がる瞬間だった。 ――ファールボール!! 無意識に頭がそう意識する。それと同時に、勢いの増す球が落ちるであろう方向を予測して、俺は青ざめた。 「りおう!!」 叫んだ。多分、利央の名前を。 誰かがその声に被せるように「あぶない!」と続けているような気がする。 走った。膝に挟んでいたバットをその場に置き捨てて。 一瞬あとに、それを持ってきてファールボールを弾けばよかったんじゃないかと思ったが、 たった数歩のその距離でも、取りに戻る余裕は無い。 「準太!」 「じゅんちゃ!!」 利央を抱き寄せた母親と、その腕の中でこちらを見た利央が同時に名を呼ぶ。 間一髪、ファールボールに飛びついた俺は、そのまま石畳の上に転がり落ちた。 「いってぇ……」 背中と左肘をしこたまぶつけた。けれどその手の中に硬い感触。 痛む腕を持ち上げると、白いボールが確かにそこにあった。 「準太!」 「おい、高瀬?」 多少ぐらぐらと揺れる視界に、覗き込むチームメイトと母親の姿が映る。 心配そうな顔に「大丈夫だ」と伝えると、その場の空気が緩んだ気配がした。 「……っ、うぁぁん! じゅんちゃ、じゅんちゃ…っ」 倒れこんだまま額に力なく手を置いた俺の耳元で、聞きなれた声が歪んだ。 その声の主は遠慮もなく、痛む俺の左腕を跨ぎ、胸上へと雪崩れ込む。 ずびずびと鼻をすする音と、くぐもった泣き声。 ぎゃんぎゃん騒がれる泣き声をうざったいと思いつつ、ユニフォームの上から感じる温かな体温にひどく安心する。 「じゅんちゃ…じゅんちゃ、いたい?」 涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔が視界いっぱいに覆いかぶさってくる。 こんなキタナイ顔ですら嫌にならないのだから、もう重症だ。 「大丈夫だって。キタネーカオで泣くな、りおう」 半分噴出しそうになるのを押さえて笑ってやれば、利央の嗚咽がぴたりと止まる。 同時に華やいだ利央の目元を愛おしく思いながら、その髪を撫でつける。 「……いたいのいたいの、とんでけー」 助けたお礼だとでも言うのだろうか。 ほんのわずかにすりむいた俺の頬の傷を利央のぷくぷくの指先が包み、真剣にそう唱える。 膝元に立つ母親が何か言いたそうに笑い、小笑いで口を歪ませたのが分かった。 「ちちんぷいぷい…ぷぷい?」 何度も続く、利央の魔法の言葉。 呪文は少しだけ間違っているけれど、そんなことはどうでも良かった。 吸い込まれそうな変わった瞳の色。 それを見るたびに落ち着く心。 こんな単純なことで痛みが引く、ささやかで、けれどとても大きな幸せ。 利央、お前は世界一の魔法使いになれるよ。 07: おむかえ(前編)広い海原を車の窓越しに確かめて、チャイルドシートの上で利央が感嘆の声を上げる。 青空というキャンパスに半分ほど昇りつめた太陽が、キラキラと海面を照らしていた。 「じゅんちゃ、きらきら!! ともくん!」 左右に鎮座する俺たち兄弟の袖を引き、利央は興奮気味だ。 利央の生まれ故郷も、やってきた俺たちの住む埼玉も、内陸にあるから海なんてそう滅多に見られない。 少し日に褪せた海のブルーに目を細め、俺も「そうだな」と頷く。 6月下旬。 少しだけ季節は外れたがようやく親父の休みが取れて、家族で外出となった。 丁度テレビで特集されていたから潮干狩りなんていいんじゃないの、と企画好きな母親が有無を言わさずその場所を決定する。 俺と弟の智也はいつものように半ば呆れ顔で、それに慣れた父親だけがかろうじて平常心で頷いていた。 ……親父、たまの休みにも係わらず三時間半も運転お疲れさん。 家を出てきたのは夜明け前。 けれど人気潮干狩り場のここは、家族連れでごった返していた。 入場までの長い車の列。 それを過ぎてもまたまた列に次ぐ列、そして人ごみ。 クマデを片手に浜に入る頃には、俺はもうぐったりとグロッキーだった。 「よーし、りおう! どっちがたくさん取れるか、競争だ!」 「うんっ、ともくん!」 若年の二人は元気がいい。 がきんちょコンビめ、と恨めしそうな目で駆け出す二人を見送りながら俺は父親と共に荷物を肩に掛ける。 あー…、日差しがきつくなりそうな一日だな。 昼時。 腰を曲げつつ数時間。途中水遊びなんかを挟んでの潮干狩りは意外に熱中できるものだった。 己の脇に置かれた袋に規定量いっぱいまで詰め込まれたアサリやらシジミやらを満足げに眺め、俺は顔を上げる。 「よし、そろそろ昼飯にしようか」 数歩先で同じように腰を上げた親父からそんな言葉が飛び出して、母親も頷いた。 「あ? あいつらどこ行った?」 先ほどまで隣でぎゃんぎゃん騒いでいた二人が見つからない。 「ああ、なんか探検だとか言ってたかな……」 「はぁ? 馬鹿じゃねーの。何処まで行ったんだよ、ったく」 悪態をつきながらきょろきょろと辺りを見回す。 その時、海岸の端からこちらに駆けてくる見慣れた姿を俺は見つけた。 弾かれたようにこちらに両手を振る弟は、どこか焦ったような顔をしている。 「あれ、智也だけか? りおうくんはどうした?」 俺と同じ疑問を持ったらしい親父が、不安そうに呟く。 どくりと脈打つ心臓。 悪い……予感がした。 >>後編へ続きます 07: おむかえ(後編)「アニキ!オヤジ! やべぇ、どうしよう。りおうが……!!」 案の定、息を切らせたそいつは青ざめて言葉を紡ぐ。 「どうしたってんだよ!」 「は……はぐれ、ちゃっ、て」 膝に手をついて背中を屈め、弟は泣き声交じりにそう言った。 「馬鹿か、お前はぁ! なんでちゃんと見とかねーんだよ!!」 気が付けば思わず智也を怒鳴りつけていた。 今にもその首元を掴まんばかりでいる俺の手を、隣に立つ父親が押さえてそっと宥める。 「準太、やめなさい。とりあえず手分けして探そう。智也、お前はここで荷物番をしなさい。もしりおうくんが戻ってきたら携帯に連絡するように」 動転している弟を余所に、頷いた俺は長く続く海岸を駆け出した。 赤。緑。茶色にネイビー。 人混みの中、色とりどりの服が目に痛い。 数分走り回って体が熱くなってきた頃、まさに救いの声とも言える放送が浜辺に木霊する。 『迷子のお知らせです。ベージュの短パンと黄色のTシャツ。年齢3歳。「りおう」くんのご家族の方、海岸西側・迷子案内センターまでお越し下さい』 「……み、つかった」 何度か繰り返されたアナウンスに、思わず安堵で額に手を当てる。 すぐさま携帯で家族に連絡を取って、結局一番近い場所にいる俺が迷子センターに向かうことになった。 赤い屋根の事務所はすぐに目に付いた。 受付窓口を目指し歩を進めると、聞きなれた利央の声に混ざって、もう一人、知らない子供の声が響いてくる。 それは辺りにわめき散らすような騒ぐような大きな声で、俺は思わず足を止めて様子を探る。 「だぁかぁらぁ、すてられたんだよー、おまえはぁ!」 恐らく、利央よりも2歳ほど年上だろう。 青い海水パンツを履いた体格のいい子供は、意地の悪い顔で利央に詰め寄る。 「す、すてられて、な、もんっ!」 「ウソつけー。じゃー、なんでひとりでこんなとこいるんだよー。ずぇーったい、すてられたんだよ」 「しゅ、しゅてら……ないぃー!」 そんな攻防が何度も繰り返されている。 ……悪ガキめ。 思わずため息をついて、止めていた足を動かし俺は受付に顔を出した。 相変わらず押され気味の利央は、それでも必死に涙を堪えて応戦している。 「すみません、仲沢利央の家族なんですけれど……」 「はい。お待ちしてました、りおうくん」 小麦色の肌をした女性ライフセーバーが振り返る前に、自分の足にどんっ、とぶつかる黄色い固まり。 ぐりぐりと顔を摺り寄せる可愛い存在を、俺は利き手でひょいと抱き上げる。 「こら、りおう。みんな心配してたんだからな」 「ごぉめんなしゃいぃー…」 先程まで必死に堪えていた涙がぶわりとあふれ、乾いた顔を汚してゆく。 それを反対の手で拭ってやりながら迷子センターの職員にお礼を言って、頭を下げた。 真似した利央もそれに習った所で、ふと部屋の中を見ると、先程の悪ガキがこちらをずっと見ている。 「……お前のとこも、すぐ迎えに来るって」 寂しげな目をしていたそのガキに、俺は思わずそんな言葉を掛けた。 返事は無い。 くるりと背を向け、そのまま俺たちを無視したガキはオモチャのブロックを積み上げる。 何か、事情があるのかもな。 一瞬どうしようかと迷ったが、多分自分には手に余る問題だろうと、俺は利央を抱きかかえたまま迷子センターを後にする。 「りおう、さみしかったか?」 「りおう、だいじょうぶだったよ。だってじゅんちゃ、おむかえしてくれるって、おもってた!」 親父達のいる場所へ戻りながら、俺は腕の中の利央に声をかける。 泣き止んだ利央はそれでも、つかんだ俺のパーカーを離そうとはしない。 ああ、やっぱり寂しかったんだろう。 時間に換算するとかなり長い間はぐれていたのだし、不安に思わないはずは無い。 「……りおう、じゅんちゃのかぞく?」 ふいに、利央の声が暗くなった。 こちらを見つめる利央の不思議な色の目が、かつてない真剣さをもって自分を射抜いた。 子供の目じゃない、と瞬間的に感じた俺は少しだけ言葉に詰まる。 けれど、はじめから答えなんて一つだ。 だから自分の精一杯の顔で笑う。 春先のあの頃と同じ、未だ不器用なその笑顔でも、利央が喜んでくれると知っているから。 「おう。お前は大事なうちの家族だよ。みんなそう思ってる」 「……じゅんちゃ、ありがとう!」 俺が全力で肯定したからだろうか。 いつものように花が咲くような笑顔になった利央の目は、もう見慣れないそれじゃない。 ああ、そうか。もしかして。 『捨てられた』 その言葉は、利央にとって意外にも重いものだったのかもしれない。 利央の両親が海外に行ったのは、本当に仕事上の仕方が無い理由があったのだけれど。 小学生の呂佳はともかく、幼い利央にはきっとどれだけ説明しても分からないだろうから。 不安だよな。 以前、真夜中の台所で人知れず泣いていた利央の姿を思い出し、準太は切なくなる。 「りおう、なぁ、またいっぱい色々遊びに来ような。親父も母さんも、ともの奴だって、みんなお前大好きなんだから」 「じゅんちゃんも? じゅんちゃんもりおうすき?」 「ああ、好きだよ。スゲー好きだよ」 あっさりと出た言葉に、自分自身驚く。 それに利央はまた笑う。もう涙の影は、どこにも無かった。 人の笑顔にこんなに幸せになれるなんて、思ってもいなかった。 馬鹿なくらい、俺を信じて笑ってくれる、この腕の中の存在が何よりも愛おしい。 海風になぜられてもなお、ふわふわな利央の頭に手をやって、俺はもう一度笑った。 もう後には引き返せない。 三ヶ月半前、こいつに出会えたことは俺にとって何よりも尊いこと。 やばいくらい、お前が大事だよ、利央。 |